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病院の窓
びょういんのまど
作品ID1045
著者南部 修太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若き入獄者の手記」 文興院
1924(大正13)年3月5日
入力者小林徹
校正者はやしだかずこ
公開 / 更新2000-10-05 / 2014-09-17
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 十七の五月だつた。私は重い膓チブスに罹つて、赤坂の或る病院へ入院した。
 入院して十日餘りは私はまるで夢中だつた。何か怖ろしい物に追ひ掛けられてゐるやうな、遁げても遁げても遁げきれないやうな苦しさのする長い夢にあがいてゐた氣持――そんな氣持で、私はその十日餘りを過した。その間に腦症を起しかけて醫師が絶望を宣告した事、そして、家中の者が枕元に集まつて豫期された私の死に涙ぐんだ事――そんな事は回復期にはいつてから初めて看護婦の武井さんに聞かされた事だつた。
 傳染病室から普通の病室へ擔架で移されたのは、六月の中旬頃の事だつた。私は痩せ衰へてゐた。床の上で武井さんに助けられながら寢返りするのがやつとだつた。食物は流動物だつた。本を讀む事もまだ許されなかつた。許されても骨と皮ばかりになつた私の手に、本の重味を支へる力の無い事は明かだつた。で、私は白い天井の蜘蛛の[#「蜘蛛の」は底本では「踟蛛」]巣を見詰めたり、電氣の球に群る三四匹の蠅の動作を眺めたりしては樂しんでゐたのだつた。
 首や手が自分で動かせるやうになつた時、私は見舞にくる母に外國の繪葉書を買つて來て貰つて眺めたり、武井さんに頼んで草花の鉢や切り花などを病院の近くの草花屋から買つて來て貰つた。そして、寢臺の側の臺の上や、窓敷居にパンジイや、フリイジヤや、釣鐘草や、撫子や、マガレツトの花などの順順に變つて行くのを、やつと首だけ動かしながら見て樂しんだ。また暫くして醫師に許されてから、宵の内など武井さんに「豐臣榮華物語」と云ふ講談を讀んで聞かせて貰つた。頭が疲れてゐるので自分で讀む事や、それ以上の感激の深い物は許されないのだつた。その中で淀君と三成の情交を述べた處、または御殿女中の亂行の件に來たりすると、私の入院日數の七十餘日の間一日も休まずに附き添つてゐてくれたその若い武井さんは、聲をひそめたり、飛ばして讀んだりした。眼を塞いで聞き入りながら、私は何時の間にかよく寢込んでしまふのだつた。
 窓の外は若葉の美しい初夏の頃だつた。
 枕からのし上つて眼を逆樣にしながら眺めると、明るい日光の中に廣い青葉を光らせてゐる桐の木が三本、何時も硝子戸越しに見えた。私は一日一日緑の深くなつてくるその葉を數へたり、處處に酢貝のやうな瘤のあるその枝振を眼をつぶつても覺えてゐられる程見詰めてゐたりした。
「ほんとに葉の縞が綺麗だな……」と、或る時私はびつくりして叫んだ。それは夕方になつて急に雨が上がつて、美しい西日がその葉裏にきらきら光り出した時だつた。
「まあ、そんなに綺麗に見えますの……」と、武井さんはそれが思掛ない事とでも云つた表情を浮べて、窓際に立つてその葉を眺めながら微笑してゐた。
 青桐の木の向うには平たい芝生の庭があつた。午後の靜かな時など、よくその眼のさめるやうな青芝の上には、白い服をそよ風にひるがへした看護婦達…

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