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顔の美について
かおのびについて
作品ID1195
著者伊丹 万作
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆40 顔」 作品社
1986(昭和61)年2月25日
入力者渡邉つよし
校正者門田裕志
公開 / 更新2002-12-13 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 人間が死ぬる前、与えられた寿命が終りに近づいたときは、その人間の分相応に完全な相貌に到達するのであろうと思う。
 完全な相貌といつただけでは何のことかわからぬが、その意味は、要するにその人の顔に与えられた材料をもつてしては、これ以上立派な形は造れないという限界のことをいうのである。
 私は時たま自分の顔を鏡に見て、そのあまりにまとまりのないことに愛想が尽きることがある。私の顔をまずがまんのできる程度に整えるためには私は歯を喰いしばり、眉間に皺を寄せて、顔中の筋肉を緊張させてあたかも喧嘩腰にならねばならぬ。しかし二六時中そんな顔ばかりをして暮せるものではない。
 おそらくひとりでぼんやりしているときは、どうにもだらしのない顔をしているのであろう。
 その時の自分の顔を想像するとちよつと憂鬱になる。
 気どつたり、すましたりしていないときでも、いつ、どこからでも十分観賞に堪え得る顔になれたら自由で安心でいい心持ちだろうとは思うが、他人から見て立派な顔と思われる人でも、本人の身になれば、案外不安なものかもしれない。
 私が今まで接した日本人で一番感心した顔は死んだ岸田劉生氏であるが、そのあまりにも神経質な言行は、せつかく大陸的に出来上つた容貌の価値を損ずるようでいかにも惜しく思われた。近ごろは西洋かぶれの流行から一般の美意識は二重まぶたを好むようであるが、あまりはつきりした二重まぶたは精神的な陰翳が感じられなく甘いばかりで無味乾燥なものである。東洋的な深みや味は一重まぶたもしくははつきりしない二重まぶたにあり、長く眺めて飽きないのはやはりこの種の顔である。
 近ごろばかな人間が手術をして一重まぶたから二重まぶたに転向する例があるが、もつたいない話である。それも本当に美しくなれるならまだしもであるが、手術後の結果を見るとたいがい徹宵泣きあかしたあとのような眼になつてしかも本人は得意でいるから驚く。
 いつたい医者という商売はどういう商売であるか。
 自分の商売の本質をよく考えてみたらこんな畠ちがいの方面にまで手を出せるわけのものではあるまい。
 人生の美に関する問題はすべて美術家の領分である。その美術家といえども神の造つた肉体に手を加えるなどという僭越は許されない。
 仕事の本質がいささかも、美に関係なく、したがつて美が何だか知りもしない医者が愚かなる若者をだまして醜い顔をこしらえあげ、しかも金を取つているのである。
 生れたままの顔というものはどんなに醜くても醜いなりの調和がある。
 医者の手にかかつた顔というものは、無惨や、これはもうこの世のものではない。
 もし世の中に美容術というものがあるとすれば、それは精神的教養以外にはないであろう。
 顔面に宿る教養の美くらい不可思議なものはない。
 精神的教養は形のないものである。したがつて目に見える道理がない。しか…

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