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詩と散文との間を行く発想法
しとさんぶんのあいだをいくはっそうほう
作品ID12612
著者折口 信夫
文字遣い旧字旧仮名
底本 「折口信夫全集 第廿七巻」 中央公論社
1968(昭和43)年1月25日
初出「改造 第十二卷第二號」1930(昭和5)年2月
入力者高柳典子
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-01-17 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

かう言ふ憎々しい物言ひをして、大變な勞作を積んで入らつしやる作家諸氏に失禮に當つたら、御免下さい。どうも、私どもは批評家でない。尠くとも、優れた新進作家の發見を、片手わざとする月評擔當者風な、忠實な氣分にはなれない。ほんの漫然たる文學青年の育つたものに過ぎない事を、つく/″\思うてゐる。それで、名聲の定まつたといふより、此人の物ならと初めから、安心してかゝれる作家の物ばかりを、讀む癖がついて了うたのが、叶はない。齒に衣を著せずに言ふと、其ほど新進作家の物を見ると、失望させられるのである。此失望と、無駄とを痛感することが、大なり小なり誰にもあつて、寧力瘤を入れて、入れ損をしない、安心な大衆作家を選ぶ樣に傾いて來たのだらう。「講釋」に思想と考證とを入れたゞけの大衆物を感心する以前に、私などは、やはり情熱を以て、さうした作家を凌ぐ名人の講釋を多く聽いてゐる。講釋の速記物――今の新聞の續き物には、講釋師の自作が多いさうだから別だ――は、聽いた時程の感興が、文章に乘つてゐないものである。此は語り手の情熱と、聽きての昂奮とが、よい状態にあるか、ないかを思はせるものだ。
曾我廼家の喜劇の臺本といふものが古くも出、近頃も少しづゝ、全集物の中や、新聞などに出て來るのを見ても、どうも、舞臺に見るだけの搏力がない。五郎といふ人は、評判どほり、相當な作劇家ではあつても、文學者ではない。殊に會話のうけわたしに、生命が缺いてゐる。私どもは、歌舞妓芝居は勿論、新派にも飽き、又さうかと言うて、藝よりも、思想よりも、傾向で押しきらうとする新劇なるものなどに、固よりやすらひは望まぬが、反對に亦昂奮も催さない。かうして、曾我廼家を愛してゐるが、可愛さうに、あれでは、五郎の作物も、會話の爲に――上方方言を使ふといふ意義ではなく――不朽の生命を持つことが出來ないと思ふ。圓朝などでも、書物を見ると、戲作者氣どりが鼻につくし、速記物を讀むと、水際立つた所のないうぢやけた物だ。こんな物は、圓朝を傳へる事が出來ない。圓朝は、傳説と空想との世界にのみ、立派になつて行く人であらう。
私は、民俗藝術は、藝術でない所に意義があるのだと考へて來た。藝術化したら、其は單に平凡な藝術なのだと主張して來た。曾我廼家喜劇や、講釋物の藝術としての價値の乏しいのも、當座きりの昂奮の有無以外に、其處に意味があると考へる。にも拘らず極端には、更に優れた、偶然の天稟を持つた人があつて、近松の樣な作物を殘すのだとも考へてゐる。大衆作家は、藝術と讀み物との二道に趺をかけ過ぎてゐる。最よい手本が、中里介山さんに見られる。大菩薩峠が、都新聞の讀者ばかりに喜ばれてゐた間は、藝術意識から自由でゐたゞけに、其處に自然の藝術味が滲み出てゐた。世間がかれこれ言ひ出す樣になつてから、急に不思議な意識が加つて來て、序に藝術味なども、吹き飛して了うた感がある…

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