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文学に於ける虚構
ぶんがくにおけるきょこう
作品ID12616
著者折口 信夫
文字遣い旧字旧仮名
底本 「折口信夫全集 第廿七巻」 中央公論社
1968(昭和43)年1月25日
初出「短歌研究 第五卷第四號」1948(昭和23)年4月
入力者高柳典子
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-01-17 / 2014-09-18
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

このごろ、短歌の上で虚構の問題が大分取り扱はれて來た。文學に虚構といふことは、昔から認められてゐた。日本文學では、それを繪空事・歌虚言などゝ言つて、文學には嘘の伴ふものだといふことを、はつきり知つてゐた。寧、藝術は嘘で成り立つてゐる。其肝腎の部分は嘘だと言つてゐる。だから昔の人は藝術には信頼せず、作家にしても、戲作などゝ自分自身を輕蔑してゐた。今言はれてゐる虚構といふことも、此態度の延長に過ぎない。
しかし、廣い意味で言へば、藝術家のする事に、虚構が一つも入らぬといふことはない。たゞ、まざ/\とした虚構が、人に感じられることがいけないのだ。そこで、文學には本來虚構があるのだから、まざ/\とした虚構も許すべきかどうかといふ問題がある。
日本の例で申します。この數年來志田義秀さんの研究で、芭蕉の作物に嘘のあることが大きくうつし出されて來た。それは、皆うす/\感じてゐたが、志田さんが例を擧げて言はれる處によると、我々の中に這入つてゐた芭蕉の、調和した姿が破れて行くやうになつた。いま、芭蕉の姿を解釋しながら、虚構が文學の上に存在し得る限界について説明してみたい。
日本の戀歌は凡虚構だ。殊に、平安朝中期以後の歌、及び其に基いて出來た歌物語は、虚構といつてよい。しかし其が、眞實らしい姿を持つてゐて、讀む人に眞實だと感じさせてゐたのだ。それだけに、其を作る動機がまる/\嘘ではなかつた。ところが世間の人は、これを始めから終りまで本道だと思つてゐたのだ。謂はゞ、作者の間では、お互に諒會してふいくしよんを用ゐてゐたが、讀者には知らしめないでゐた訣だ。さういふ風にして、虚構の多い歌を作り、歌物語を作つてゐた、其傳統を承け繼いだ連歌師・誹諧師が、虚構の文學を作るのは、當然のことゝ言へよう。唯、芭蕉といふ人が人間的に非常に信頼されてゐたので、我々として、どの點まで信頼すべきであると訣つてはゐたけれど、其以上の點まで、傳記などをすべて信頼してゐたのだ。だから、芭蕉の作物がすべて、眞面目な動機から出てゐる、といふより生活の眞實から生れてゐると、考へ過ぎてゐた。しかし、芭蕉といへど、日本の文學者で、虚構の文學の畑に育つた人である以上、虚構を如何にして眞實げに表さうといふ苦心をしたか、我々の考へるべきは、そこにある。
しかし、芭蕉の書いたものだけ見てゐると反證があがらぬが、其と竝行して、或同行者が芭蕉の行動を緻密に書いてゐるとしたら、芭蕉の虚構の文學は、實際の記録によつて破壞せられる。だが、破られて了ふと思ふのは、實は我々の持つてゐた小偶像が破壞せられるだけで、芭蕉の文學の眞實性は、決して亡びるものではない。
いちばん適切に、簡單にその事の言へるのは、曾良の書いた、「奧の細道隨行日記」である。江戸を出發して奧州から北陸を[#挿絵]つて戻つて來る間に、此眞實の記録書と併行して、如何に芭蕉が虚構…

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