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商品としての近代小説
しょうひんとしてのきんだいしょうせつ
作品ID13204
著者平林 初之輔
文字遣い新字旧仮名
底本 「平林初之輔文藝評論全集 上巻」 文泉堂書店
1975(昭和50)年5月1日
初出「思想」1929(昭和4)年5月
入力者田中亨吾
校正者土屋隆
公開 / 更新2004-11-24 / 2014-09-18
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

            一

 文学作品の大衆性の問題は、ルナチヤルスキイ等がいふやうに、文学作品の形式の問題に止まるであらうか? 更に進んでは、これは文学そのものに内在する問題であらうか? そして或る作品が大衆性を有するといふこと自体が、その作品の何か非常に望ましき芸術的なメリツト若しくは価値であるだらうか?
 私は最近まで、この疑問に対して「然り」と答へるのを常としてゐた。それどころか、秀れた文学作品は必らず大衆性をもつべきものであり、大衆性をもつといふことは、その作品がすぐれてゐるといふことの不可欠の条件であると考へてゐた。
 尤も、最近に、私は、この考へに多少の制限を加へて、出版商業主義の力が、文学の大衆性を決定する上に相当な役割を演じてゐるといふことを認めるやうになつて来たが、それでも、なほ、私は、この商業主義の力は、文学作品の大衆性に対して付随的な条件に過ぎないと考へてゐた。ところが近頃になつて、私は、文学作品の大衆性の問題は、文学の本質的な問題といふよりも、寧ろより多く、商業主義によりて決定される問題であり、大衆性といふことに関する限りに於いては、出版商業主義の力こそ、まさに本質的な要素であると信ずるやうになつて来た。
 そこで、私は、言はゞ、文学作品の芸術的価値に対立して、その商業的価値とでもいふべきものを仮想する必要に迫られた。マルクス主義文学の作品の場合に、政治的価値と芸術的価値とを対立させたやうに、いはゆる大衆文学の作品の場合には、商業的価値と芸術的価値とを一応分離して対立させなければ、文学作品の大衆性といふ問題を十分に理解することは不可能であると考へるに至つた。
 さきに、芸術的価値と政治的価値とを私が分離したときに、この二つは互に排撃しあふものであると私が主張したかの如く誤解した人が随分あつたが、私はこの二つは、別々の要素であるにかゝはらず、一作品のうちに両立し得るものであることは認めたが、マルクス主義文学の場合には、政治的価値が優位を占めなければならぬと言つたまでゞある。
 この関係は、大衆文学に於ける、芸術的価値と商業的価値との場合にも全く同じである。この二つの価値は互に排撃しあふものではないが、大衆文学の作品の場合には、後者が前者よりも重要視され、後者を十分に発揮するためには前者は幾分犠牲にされることもある。尤もマルクス主義文学の場合にも、大衆文学の場合にも、二つの価値が、それ/″\最高度に到達してゐる場合、即ち、前の場合では芸術的にもすぐれてゐながら、政治的目的にもかなひ、後者の場合には、芸術的にもすぐれてゐながら、大衆性をももつてゐる場合が、最も完全な、最も望ましい場合であるが、その場合でも私たちは、二つの価値構成要素を矢張り分析し得るのである。

            二

 近代文学に於いて最も大衆性をもつてゐるもの…

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