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真珠夫人
しんじゅふじん
作品ID13217
著者菊池 寛
文字遣い新字旧仮名
底本 「菊池寛全集 第五巻」 高松市菊池寛記念館刊行、文藝春秋社発売
1994(平成6)年3月15日
初出「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日
入力者kompass
校正者松永正敏
公開 / 更新2005-04-03 / 2014-09-18
長さの目安約 589 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

奇禍




 汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなつて行く焦燥しさで、満たされてゐた。国府津迄の、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせてゐるのであつた。
 彼は、一刻も早く静子に、会ひたかつた。そして彼の愛撫に、渇ゑてゐる彼女を、思ふさま、いたはつてやりたかつた。
 時は六月の初であつた。汽車の線路に添うて、潮のやうに起伏してゐる山や森の緑は、少年のやうな若々しさを失つて、むつとするやうなあくどさで車窓に迫つて来てゐた。たゞ、所々植付けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂はせてゐるのであつた。
 常ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になつてゐる筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さへ見えなかつた。たゞ仏蘭西人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めてゐるのが、信一郎の注意を、最初から惹いてゐるだけである。彼は、若い男鹿の四肢のやうに、スラリと娜な少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とに迭みに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしてゐた。此の一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合はしてゐるだけである。
 が、あの湯治階級と云つたやうな、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や白金や宝石の装身具を身体のあらゆる部分に、燦かしてゐるやうな人達が、乗り合はしてゐないことは信一郎にとつて結局気楽だつた。彼等は、屹度声高に、喋り散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞つたりすることに依つて、現在以上に信一郎の心持をいら/\させたに違ひなかつたから。
 日は、深く翳つてゐた。汽車の進むに従つて、隠見する相模灘はすゝけた銀の如く、底光を帯たまゝ澱んでゐた。先刻まで、見えてゐた天城山も、何時の間にか、灰色に塗り隠されて了つてゐた。相模灘を圧してゐる水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでゐさうな、暗鬱な雲が低迷してゐた。もう、午後四時を廻つてゐた。
『静子が待ちあぐんでゐるに違ひない。』と思ふ毎に、汽車の廻転が殊更遅くなるやうに思はれた。信一郎は、いらいらしくなつて来る心を、ぢつと抑へ付けて、湯河原の湯宿に、自分を待つてゐる若き愛妻の面影を、空に描いて見た。何よりも先づ、その石竹色に湿んでゐる頬に、微笑の先駆として浮かんで来る、笑靨が現はれた。それに続いて、慎ましい脣、高くはないけれども穏やかな品のいゝ鼻。が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現はれてゐる処女らしい含羞性、それを思ひ出す毎に、信一郎自身の表情が、たるんで来て、其処には居合はさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでゐた。彼は、…

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