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業苦
ごうく
作品ID1335
著者嘉村 礒多
文字遣い旧字旧仮名
底本 「日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集」 新潮社
1962(昭和37)年4月20日
入力者伊藤時也
校正者小林繁雄
公開 / 更新2001-02-27 / 2014-09-17
長さの目安約 34 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 只、假初の風邪だと思つてなほざりにしたのが不可かつた。たうとう三十九度餘りも熱を出し、圭一郎は、勤め先である濱町の酒新聞社を休まねばならなかつた。床に臥せつて熱に魘される間も、主人の機嫌を損じはしまいかと、それが譫言にまで出る程絶えず惧れられた。三日目の朝、呼び出しの速達が來た。熱さへ降れば直ぐに出社するからとあれだけ哀願して置いたものを、さう思ふと他人の心の情なさに思はず不覺の涙が零れるのであつた。
「僕出て行かう」
 圭一郎は蒲團から匍ひ出たが、足がふら/\して眩暈を感じ昏倒しさうだつた。
 千登世ははら/\し、彼の體躯につかまつて「およしなさい。そんな無理なことなすつちや取返しがつかなくなりますよ」と言つて、圭一郎を再寢かせようとした。
「だけど、馘首になるといけないから」
 千登世は兩手を彼の肩にかけたまゝ、亂れ髮に蔽はれた蒼白い瓜實顏を胸のあたりに押當てて、[#挿絵]りあげた。「ほんたうに苦勞させるわね。すまない……」
「泣いちや駄目。これ位の苦勞が何んです!」
 斯う言つて、圭一郎は即座に千登世を抱き締め、あやすやうにゆすぶり又背中を撫でてやつた。彼女は一層深く彼の胸に顏を埋め、獅噛みつくやうにして肩で息をし乍ら猶暫らく歔欷をつゞけた。
 冷の牛乳を一合飮み、褞袍の上にマントを羽織り、間借して居る森川町新坂上の煎餅屋の屋根裏を出て、大學正門前から電車に乘つた。そして電柱に靠れて此方を見送つてゐる千登世と、圭一郎も車掌臺の窓から互ひに視線を凝つと喰ひ合してゐたが、軈て、風もなく麗かな晩秋の日光を一ぱいに浴びた靜かな線路の上を足早に横切る項低れた彼女の小さな姿が幽かに見えた。
 永代橋近くの社に着くと、待構へてゐた主人と、十一月二十日發行の一面の社説についてあれこれ相談した。逞しい鍾馗髯を生やした主人は色の褪せた舊式のフロックを着てゐた。これから大阪で開かれる全國清酒品評會への出席を兼ねて伊勢參宮をするとのことだつた。猶それから白鷹、正宗、月桂冠壜詰の各問屋主人を訪ひ業界の霜枯時に對する感想談話を筆記して來るやうにとのことをも吩咐けて置いてそしてあたふたと夫婦連で出て行つた。
 主人夫婦を玄關に送り出した圭一郎は、急いで二階の編輯室に戻つた。仕事は放擲らかして、机の上に肘を突き兩掌でぢくり/\と鈍痛を覺える頭を揉んでゐると、女中がみしり/\梯子段を昇つて來た。
「大江さん、お手紙」
「切拔通信?」
「いゝえ。春子より、としてあるの、大江さんのいゝ方でせう。ヒツヒツヒヽ」
 圭一郎は立つて行つた、それを女中の手から奪ふやうにして[#挿絵]ぎ取つた。痘瘡の跡のある横太りの女中は巫山戲てなほからかはうとしたが、彼の不愛嬌な顰め面を見るときまりわるげに階下へ降りた。そして、も一人の女中と何か囁き合ひ哄然と笑ふ聲が聞えて來た。
 圭一郎は胸の動悸を堪へ、故郷…

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