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足相撲
あしずもう
作品ID1337
著者嘉村 礒多
文字遣い旧字旧仮名
底本 「日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集」 新潮社
1962(昭和37)年4月20日
入力者伊藤時也
校正者小林繁雄
公開 / 更新2001-02-21 / 2014-09-17
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 S社の入口の扉を押して私は往來へ出た。狹い路地に入ると一寸佇んで、蝦蟇口の緩んだ口金を齒で締め合せた。心まちにしてゐた三宿のZ・K氏の口述になる小説『狂醉者の遺言』の筆記料を私は貰つたのだ。本來なら直に本郷の崖下の家に歸つて、前々からの約束である私の女にセルを買つてやるのが人情であつたがしかし最近或事件で女の仕草をひどく腹に据ゑかねてゐた私は、どう考へ直しても氣乘りがしなくて、ただ漫然と夕暮の神樂坂の方へ歩いて行つた。もう都會には秋が訪れてゐて、白いものを着てゐる自分の姿が際立つた寂しい感じである。ふと坂上の眼鏡屋の飾窓を覗くと、氣にいつたのがあつて餘程心が動いたが、でも、おあしをくづす前に、一應Z・K氏にお禮を言ふ筋合のものだと氣が附いて、私はその足で見附から省線に乘つた。
 私がZ・K氏を知つたのは、私がF雜誌の編輯に入つた前年の二月、談話原稿を貰ふために三宿を訪ねた日に始まつた。
 其日は紀元節で、見窄らしい新開街の家々にも國旗が飜つて見えた。さうした商家の軒先に立つて私は番地を訪ねなどした。二軒長屋の西側の、壁は落ち障子は破れた二間きりの家の、四疊半の茶呑臺の前に坐つて、髮の伸びたロイド眼鏡のZ・K氏は、綿の食み出た褞袍を着て前跼みにごほん/\咳き乍ら、私の用談を聞いた。玄關の二疊には、小説で讀まされて舊知の感のある、近所の酒屋の爺さんの好意からだと言ふ、銘酒山盛りの菰冠りが一本据ゑてあつて、赤ちやんをねんねこに負ぶつた夫人が、栓をぬいた筒口から酒をぢかに受けた燗徳利を鐵瓶につけ、小蕪の漬物、燒海苔など肴に酒になつた。
 やがて日が暮れ體中に酒の沁みるのを待つて、いよいよこれから談話を始めようとする前、腹こしらへにと言つて蕎麥を出されたが、私は半分ほど食べ殘した。するとZ・K氏は眞赤に怒つて、そんな禮儀を知らん人間に談話は出來んと言つて叱り出した。私は直樣丼の蓋を取つておつゆ一滴餘さず掻込んで謝つたが、Z・K氏の機嫌は直りさうもなく、明日出直して來いと私を突き返した。
 翌日も酒で夜を更かし、いざこれから始めようとする所でZ・K氏は、まだ昨夜の君の無禮に對する癇癪玉のとばしりが頭に殘つてをつてやれないから、もう一度來て見ろと言つた。仕方なく又次の日に行くと、今度は文句無しに喋舌つてくれた。四方山の話のすゑZ・K氏は私の、小説家になれればなりたいといふ志望を聞いて、斷じてなれませんなと、古い銀煙管の雁首をポンと火鉢の縁に叩きつけて、吐き出すやうに言つた。昔ひとりの小僧さんが烏の落した熟柿を拾つて來てそれを水で洗つて己が師僧さんに與へた。すると師僧さんはそれを二分して小僧さんにくれて、二人はおいしい/\と言つて食べた――といふ咄をして、それとこれとは凡そ意味が違ふけれど、他人の振舞ふ蕎麥を喰ひ殘すやうな不謙遜の人間に、どうしてどうして、藝術など出來るも…

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