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姉川合戦
あねがわのかっせん
作品ID1355
著者菊池 寛
文字遣い新字新仮名
底本 「日本合戦譚」 文春文庫、文芸春秋
1987(昭和62)年2月10日 
入力者大野晋、Juki、網迫
校正者土屋隆
公開 / 更新2009-08-08 / 2014-09-21
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       原因

 元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。これが、姉川の合戦である。
 この合戦、浅井及び織田にては、野村合戦と云う。朝倉にては三田村合戦と云う。徳川にては姉川合戦と云う。後に徳川が、天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったわけだ。
 元来、織田家と朝倉家とは仲がわるい。両家とも欺波家の家老である。応仁の乱の時、斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に叛いた治郎大輔義敏にくっついた。そして謀計を廻らして義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。だから、織田から云えば、朝倉は逆臣の家であったわけだし、朝倉の方から云えば、織田は陪臣の家だと賤しんだ。
 だが、両家の間に美濃の斎藤と云う緩衝地帯がある内は、まだよかった。それが、無くなった今は、早晩衝突すべき運命にあった。
 江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが、兵馬剛壮、之を敵にしては、信長が京都を出づるについて不便だった。信長は、妹おいちを娘分として、長政と婚を通じて、親子の間柄になった。
 だが、長政は信長と縁者となるについて条件があった。それは、浅井と越前の朝倉とは、代々昵懇の間柄であるから、今後朝倉とも事端をかまえてくれるなと云うのであった。信長はその条件を諾して、越前にかまわざるべしとの誓紙を、長政に与えた。
 永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面した。佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。信長からの数々の進物に対して、長政は、家重代の石わりと名づけたる備前兼光の太刀を贈った。この浅井家重代の太刀を送ったのは、浅井家滅亡の前兆であると、後に語り伝えられた。
 然るに無力でありながら陰謀好きの将軍義昭は、近畿を廻る諸侯を糾合して、信長を排撃せんとした。その主力は、越前の朝倉である。
 信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪溶くるを待って、徳川家康と共に敦賀表に進発した。
 しかも、前年長政に与えたる誓書あるに拘らず、長政に対して一言の挨拶もしなかった。信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶しては却って長政の立場が困るだろうとの配慮があったのだろう、と云われて居る。
 決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対しては、これまでにも、可なり好遇している。
 だが、信長の越前発向を聞いて、一番腹を立てたのは、長政の父久政である。元来、久政は長政十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男故、あまり利口でなく、旧弊で頑固であったに違いない。信長の違約を怒って、こんな表裏反覆の信長のことだから、越前よりの帰りが…

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