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賤ヶ岳合戦
しずがたけのかっせん
作品ID1361
著者菊池 寛
文字遣い新字新仮名
底本 「日本合戦譚」 文春文庫、文芸春秋
1987(昭和62)年2月10日
入力者大野晋、Juki、網迫
校正者土屋隆
公開 / 更新2009-10-22 / 2016-01-17
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       清洲会議之事

 天正十年六月十八日、尾州清洲の植原次郎右衛門が大広間に於て、織田家の宿将相集り、主家の跡目に就いて、大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。
 この年の六月二日、京都本能寺に在った右大臣信長は、家臣惟任日向守光秀の反逆に依って倒れ、その長子三位中将信忠も亦、二条の城に於て、父と運命を共にした。当時、織田の長臣柴田修理亮勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々内蔵助成政、前田又左衛門利家、佐久間玄蕃允盛政、及び養子伊賀守勝豊以下を率いて、越中魚津に在陣中であった。本能寺の変が報ぜられたのは、同月四日の夜に入ってからであるが、陣中の周章は一方でなく、戦半ばにして、勝家は越前に、盛政は富山に引き退いた。又滝川左近将監一益も、武蔵野に於て、北条左京大夫氏政と合戦中であったが、忽ち媾和して、尾州長島の居城に帰った。更に森勝蔵長勝は、上杉家と争って居たのだが、信濃川中島へ退き松本を経て、美濃に退いて居た。さて最後に、羽柴筑前守秀吉であるが、当時、中国の毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城水攻をやっていたが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日子の刻であるが、五日の朝まで、信長生害の事を秘して、終に毛利との媾和に成功した。和成るや飛ぶが如くに馳せ上って、光秀の虚を山崎宝寺天王山に衝き、光秀をして三日天下のあわれを喫せしめた。この山崎合戦が、まさに、秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の遺した事業に対し、偉大なる発言権を握ったわけだ。勝家以下の諸将が、変に応じて上洛を期したけれども、秀吉の神速なる行動には及ぶべくもなかった。だが、信長の遺児功臣多数が存する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行かない。遺児の中何人をして、信長の跡に据えるかと云うことが大問題であった。さて信長信忠の血を享けて居る者には、次男信雄、三男信孝及び、信忠の子三法師丸がある。この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の題目であった。植原館の大広間、信雄信孝等の正面近く、角柱にもたれて居るのは勝家である。勝家の甥三人も柱の近くに坐した。秀吉は縁に近く、池田武蔵入道勝入、丹羽五郎左衛門尉長秀等以下夫々の座に着いた。広間の庭は、織田家の侍八百人余り、勝家の供侍三百余と共に、物々しい警固だつた。一座の長老勝家、先ず口を開いて、織田家の御世嗣には御利発の三七信孝殿を取立参らせるに如くはない、と云った。勢威第一の勝家の言であるから、異見を抱いて居る部将があっても、容易に口に出し難い。満座粛として静まり返って居るなかに、おもむろに、異見を述べたのは秀吉である。「柴田殿の仰御尤のようではあるが、信孝殿御利発とは申せ、天下をお嗣参らせる事は如何であろう。信長公の嫡孫三法師殿の在すからには、この君を立て参らせるのが、最も正当であると存ずるが、如何であろう」と。言辞鄭重では…

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