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真田幸村
さなだゆきむら
作品ID1367
著者菊池 寛
文字遣い新字新仮名
底本 「日本合戦譚」 文春文庫、文芸春秋
1987(昭和62)年2月10日
入力者大野晋、Juki、網迫
校正者土屋隆
公開 / 更新2009-10-22 / 2014-09-21
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

真田対徳川

 真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我弟実名は武田信玄の舎弟典厩と同じ名にて字も同じ」と云っているから信繁と云ったことは、確である。
『真田家古老物語』の著者桃井友直は「按ずるに初は、信繁と称し、中頃幸重、後に信賀と称せられしものなり」と云っている。
 大阪陣前後には、幸村と云ったのだと思うが、『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。これで見ると、徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。しかし、とにかく幸村と云う名前が、徳川時代の大衆文学者に採用されたため、この名前が圧倒的に有名になったのだろう。
 むかし、姓名判断などは、なかったのであるが、幸村ほど智才秀れしものは時に際し事に触れて、いろいろ名前を替えたのだろう。
 真田は、信濃の名族海野小太郎の末胤で、相当な名族で、祖父の幸隆の時武田に仕えたが、この幸隆が反間を用いるに妙を得た智将である。真田三代記と云うが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。
 一体真田幸村が、豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼のために華々しき戦死を遂げたかと云うのに、恐らく父の昌幸以来、徳川家といろいろ意地が重っているのである。
 上州の沼田は、利根川の上流が、片品川と相会する所にあり、右に利根川左に片品川を控えた要害無双の地であるが、関東管領家が亡びた後、真田が自力を以て、切り取った土地である。
 武田亡びた後、真田は仮に徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時、北条側の要求に依って、沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田に沼田を北条へ渡してくれ、その代りお前には上田をやると云った。
 所が、昌幸は、上田は信玄以来真田の居所であり、何にも徳川から貰う筋合はない。その上、沼田はわが鋒を以て、取った土地である。故なく人に与えんこと叶わずと云って、家康の要求を断り、ひそかに秀吉に使を出して、属すべき由云い送った。天正十三年の事である。
 家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政等に攻めさせた。
 それを、昌幸が相当な軍略を以て、撃退している。小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつかしかった時だから、秀吉が、上杉景勝に命じて、昌幸を後援させる筈であったとも云う。
 この競合が、真田が徳川を相手にした初である。と同時に真田が秀吉の恩顧になる初である。
 その後、家康が秀吉と和睦したので、昌幸も地勢上、家康と和睦した。
 家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡子信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。そして、使を出すと、昌幸は「左様の使にて有間敷也。使の聞き誤りならん。急き帰って此旨申されよ」と云って、受けつけなかった。
 徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと云う昌幸の気概想うべしである。
 そこで、家康が秀吉に相談すると、
「真田尤也、中務が娘を養い置きたる間、わ…

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