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忘れえぬ人々
わすれえぬひとびと
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「武蔵野」 岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年2月15日第1刷
初出「国民之友」1898(明治31)年4月
入力者土屋隆
校正者蒋龍
公開 / 更新2009-04-23 / 2014-09-21
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。その中ほどに亀屋という旅人宿がある。ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱な寒そうな光景を呈していた。昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ茅屋根の南の軒先からは雨滴が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋の足痕にたまった泥水にすら寒そうな漣が立っている。日が暮れると間もなく大概の店は戸を閉めてしまった。闇い一筋町がひっそりとしてしまった。旅人宿だけに亀屋の店の障子には燈火が明く射していたが、今宵は客もあまりないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸の太そうな煙管で火鉢の縁をたたく音がするばかりである。
 突然に障子をあけて一人の男がのっそり入ッて来た。長火鉢に寄っかかッて胸算用に余念もなかった主人が驚いてこちらを向く暇もなく、広い土間を三歩ばかりに大股に歩いて、主人の鼻先に突ったッた男は年ごろ三十にはまだ二ツ三ツ足らざるべく、洋服、脚絆、草鞋の旅装で鳥打ち帽をかぶり、右の手に蝙蝠傘を携え、左に小さな革包を持ってそれをわきに抱いていた。
『一晩厄介になりたい。』
 主人は客の風采を視ていてまだ何とも言わない、その時奥で手の鳴る音がした。
『六番でお手が鳴るよ。』
 ほえるような声で主人は叫んだ。
『どちらさまでございます。』
 主人は火鉢に寄っかかったままで問うた。客は肩をそびやかしてちょっと顔をしがめたが、たちまち口の辺に微笑をもらして、
『僕か、僕は東京。』
『それでどちらへお越しでございますナ。』
『八王子へ行くのだ。』
 と答えて客はそこに腰を掛け脚絆の緒を解きにかかった。
『旦那、東京から八王子なら道が変でございますねエ。』
 主人は不審そうに客のようすを今さらのようにながめて、何か言いたげな口つきをした。客はすぐ気が付いた。
『いや僕は東京だが、今日東京から来たのじゃアない、今日は晩くなって川崎を出発て来たからこんなに暮れてしまったのさ、ちょっと湯をおくれ。』
『早くお湯を持って来ないか。ヘエ随分今日はお寒かったでしょう、八王子の方はまだまだ寒うございます。』
という主人の言葉はあいそがあっても一体の風つきはきわめて無愛嬌である。年は六十ばかり、肥満った体躯の上に綿の多い半纒を着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々しい顔の目じりが下がっている。それでどこかに気むずかしいところが見えている。しかし正直なお爺さんだなと客はすぐ思った。
 客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人は、
『七番へご案内申しな!』
 と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫が厨房の方から来て、そッと主人の高い膝の上にはい上がって丸くなった。主人はこれを知っているの…

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