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私の父
わたしのちち
作品ID1470
著者堺 利彦
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆49 父」 作品社
1986(昭和61)年11月25日
入力者もりみつじゅんじ
校正者今井忠夫
公開 / 更新2000-11-15 / 2014-09-17
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私の覚えている父は既に五十であった。髪の毛などは既にやや薄くなっていたように思う。「何さよ気分に変りは無いのじゃがなア」などと、若やいだようなことを言うていることもあったが、何しろ私の目には既に老人であった。名は堺得司。
 父の顔にはかなり多く疱瘡の跡があった。いわゆるジャモクエであった。しかしその顔立ちは尋常で、むしろ品のよい方であった。体格は小柄で、しかも痩せぎすであった。サムライのたしなみとしては、剣術よりも多く柔術をやったらしい。弓も少しは引いたらしい。喘息持ちでずいぶん永く寝ていることもあったが、ズット年を取ってからは直っていた。そういう体質上、力わざはあまりしなかったが、元来が器用なたちで、よく大工の真似をやっていた。大工道具はすっかり揃っていて、棚を釣る、ひさしを拵えるくらいのことは、人手を借らずにズンズンやっていた。
 学問はない方の人で、四書の素読くらいはやったのだろうが、ついぞ漢学なり国学なりの話をしたことがなかった。ただ俳諧は大ぶん熱心で、後には立机を許されて有竹庵眠雲宗匠になっていた。『風俗文選』などいう本をわざわざ東京から取寄せて、幾らか俳文をひねくったりしたこともあった。碁もかなり好きだし、花もちょっと活けていた。私も自然、その三つの趣味を受けついでいる。花の方は、別だん受けついだというほどでもないが、「遠州流はどうもちっと拵えすぎたようで厭じゃ。俺の流儀の池の坊の方がわざとらしゅう無うてええ」というくらいの話を聞いている。そういうことは多少、私の処世上の教訓にもなったような気がする。碁について一つおかしいことがある。初めて私の家に碁盤が運びこまれた時、父はそれを余所からの預かり物だと言っていた。しかし私らは、いつの頃からか、決してそれが預かり物でないことを知っていた。思うに父は、私らに対して、望むだけの本など買ってやらないのだから、自分の娯楽のために金を費すことを遠慮したのだろう。しかし私は、それについて何も言ったことはないし、ただむしろ父の遠慮に対して好い感情を持っていた。
 父の俳句に「夕立の来はなに土の臭ひかな」というのがある。これなどは豊津の生活の実景で、初めてそれを聞いた時、子供心にもハハアと思った。豊津の原にはよく夕立が来た。暑い日の午後、毎日のように極ってサーッとやって来るのが、いかにもいい気持だった。そしてその夕立の来はなに、大粒の奴がパラ/\パラ/\と地面を打つ時、涼気がスウーッと催して来ると同時に、プーンと土の臭いが我々の鼻を撲つのであった。「かんざしの脚ではかるや雪の寸」などというのも、私の子供心には別だん艶な景色とも思わず、ただ眼前の実景と感じていた。「百までも此の友達で花見たし」「菜の花や昔を問へば海の上」「目に立ちて春のふえるや柳原」などいうのも覚えている。系統としては美濃派だとか、支考派だとか言っ…

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