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夜明け前
よあけまえ
作品ID1505
副題02 第一部下
02 だいいちぶげ
著者島崎 藤村
文字遣い新字新仮名
底本 「夜明け前 第一部下」 岩波文庫、岩波書店
1969(昭和44)年2月17日
入力者高橋真也
校正者小林繁雄
公開 / 更新2001-05-26 / 2014-09-17
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     第八章

       一

「もう半蔵も王滝から帰りそうなものだぞ。」
 吉左衛門は隠居の身ながら、忰半蔵の留守を心配して、いつものように朝茶をすますとすぐ馬籠本陣の裏二階を降りた。彼の習慣として、ちょっとそこいらを見回りに行くにも質素な平袴ぐらいは着けた。それに下男の佐吉が手造りにした藁草履をはき、病後はとかく半身の回復もおそかったところから杖を手放せなかった。
 そういう吉左衛門も、代を跡目相続の半蔵に譲り、庄屋本陣問屋の三役を退いてから、半年の余になる。前の年、文久二年の夏から秋へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路を通過した長州侯をこの宿場に迎えることもできなかったころだ。おりからの悪病流行で、あの大名ですら途中の諏訪に三日も逗留を余儀なくせられたくらいのころだ。江戸表から、大坂[#「大坂」は底本では「大阪」]、京都は言うに及ばず、日本国じゅうにあの悪性の痲疹が流行して、全快しても種々な病に変わり、諸方に死人のできたこともおびただしい数に上った。世間一統、年を祭り替えるようなことは気休めと言えば、気休めだが、そんなことでもして悪病の神を送るよりほかに災難の除けようもないと聞いては、年寄役の伏見屋金兵衛なぞが第一黙っているはずもなく、この宿でも八月のさかりに門松を立て、一年のうちに二度も正月を迎えて、世直しということをやった。吉左衛門としては、あれが長い駅長生活の最後の時だった。同じ八月の二十九日には彼は金兵衛と共に退役を仰せ付けられる日を迎えた。それぎり、ずっと引きこもりがちに暮らして来た彼だ。こんなに宿場の様子が案じられ、人のうわさも気にかかって、忰の留守に問屋場の方まで見回ろうという心を起こしたのは、彼としてもめずらしいことであった。
 当時、将軍家茂は京都の方へ行ったぎりいまだに還御のほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。種々な流言も伝わって来るころだ。吉左衛門の足はまず孫たちのいる本陣の母屋の方へ向いた。


「やあ、例幣使さま。」
 母屋の囲炉裏ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って子供に戯れている。おまん(吉左衛門の妻)も裏二階の方から来て、お民(半蔵の妻)と一緒になっている。家族のあるものはすでに早い朝の食事をすまし、あるものはまだ膳に向かっている。そこへ吉左衛門がはいって行った。
「いゝえ、正己は例幣使さまじゃありません。」とおまんが三番目の孫に言って見せる。
「おとなしくして御飯を食べるものは、例幣使さまじゃないで。」とまた佐吉が言う。囲炉裏ばたのすみのところに片足を折り曲げ、食事をするにも草鞋ばきのままでやるのがこの下男の癖だった。
「佐吉、おれは例幣使さまじゃないぞい。」
 と総領の宗太が言い出したので、囲炉裏ばたに集…

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