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森の声
もりのこえ
作品ID1524
著者薄田 泣菫
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆21 森」 作品社
1984(昭和59)年7月25日
入力者門田裕志
校正者大野晋
公開 / 更新2004-12-08 / 2014-09-18
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 自分は今春日の山路に立つてゐる。路の両側には数知れぬ大木が聳え立つて、枝と枝との絡みあつたなかには、闊葉細葉がこんもりと繁つて、たまたまその下蔭を往く山番の男達が、昼過ぎの空合を見ようとしたところで、雲の影ひとつ見つけるのは、容易な事では無い。何といつても、承和の帝から禁山の御宣旨があつて以来、今日まで斧ひとつ入らぬ神山である。夏が来て瑞葉がさし、冬が来て枯葉が落ちる。落ちた木の葉は、歳々の夢を抱いて、その儘再び大地に朽ち入つてしまふ。かうして千年の齢を重ねて見れば、一体の山の風情が、そんじよそこらに出来合の雑木林と、趣を異にしてゐるのは無理もあるまい。大気は冷つこい。山の肌はいつも下湿りがしてゐる。ありふれた山では、秋でなくては嗅がれぬ土の香が、どことなくしつとりと漂つて来る。
 大なるかな、春日の森。海原をつくり、焔の山をつくり、摩西をつくり、鯨の背骨をつくつた大自然の手は、ここに又春日の森を造つてゐる。杉は暁方の心あがりに、天にも伸びよと、丈高く作つたものらしい。櫟は月曜日の午前、魂の張切つた一瞬に産み落したものらしい。竹柏は夕暮の歌であらう。馬酔木は折節の独り言かも知れぬ。いづれも持前の性分を思ふが儘に見せて、側目も振らず、すくすくと衝立つてゐる。大空は微笑を湛へて、額の上にひろがつてゐる。第一の光明はわが掌にといつた風に、いづれも骨太の腕をさし伸べてゐる。地に生れて天を望むといふのは、思ふだに痛ましい。痛ましいに違ひは無いが、その昔嫩葉を芽ぐんだ日より、もつて産れた各がじしの宿命である。木はその宿命を楽んで自らの代の終るまでは、ただの一日たりとも、その努力を休めぬ。時は皐月の半ば、古沼の藻も花をかざらうといふこの頃である。薄曇りした蒸暑い正午過ぎの温気に葉は葉の営みをし、根は根のいそしみをし、幹は幹のつとめを励む。まことに烈しい生活の有様である。
 大杉のひとつがいふ。
「余りに高くなり過ぎて、どうにも心寂しくてならない。それにあの雲の襞がうるさい。電光など落ちて来るといいのに。」
 若い馬酔木がいふ。
「背低なのも厭になつた。土の香が鼻につき過ぎる。きのふを忘れる術は無いものか知ら。」
 老樹の櫟がつぶやく。
「生命にも少し飽きたやうだ。鷲はどこへ往つたか知ら。良弁を落したままで、未だに帰つて来ない。待つてゐる間に千年の夏は経つてしまつた。余り短い月日でも無かつたやうだ。」
 竹柏がまたいふ。
「何だか言語が欲しくなつて来やうだ。」
 空には雲も薄らいで、そろそろ天気が直つて来たらしい。初夏の気力に満ちた白い光が一筋さつと黒ずんだ竹柏の枝を洩れて、花やかに樹々の幹に落ちる。すると、鳶色がかつた樅や、白味の勝つた櫟や、干割れた竹柏の樹の肌が、陰鬱な森の空気にくつきりと浮き上つて、さながら古寺の内陣で、手燭の火影に、名匠の刻んだ十二神将の背でも見る…

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