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本因坊と私
ほんいんぼうとわたし |
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作品ID | 1542 |
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著者 | 関根 金次郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻11 囲碁Ⅱ」 作品社 1992(平成4)年1月25日 |
入力者 | 葵 |
校正者 | 柳沢成雄 |
公開 / 更新 | 2001-08-24 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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本因坊もたうとういけなかつたネ。全く惜しいことをした。寂しいかつて?そりや、本因坊と私は四拾年近い交際だからな普通の友達つきあひにしたつて三十年、四十年となると仲々難しいのに、馬が合つたと言はうか、二人ツきりの水入らずで、よく旅行もしたし、睾丸も見せ合つた仲だからネ。
男の交際と言ふものは、羽織袴の交際だけじや駄目なものだよ。素ツ裸になつてお臍の穴から睾丸まで見せ合ふやうにならなくつては。何処で最初に見せ合つたつて?アツ、ハツハツハ……馬鹿な、日光へ二人ツきりでいつた時かなア。一緒に風呂に這入つたからネ。
初めて二人が交際し出したのが、私が芝の松本町に住んでた時分だ。芝公園の裏手にあたる処で、近所に仲間の井上義雄八段も棲んでゐた。
その頃本因坊は既に名人だつたが、私はまだ八段で、名人になれるかどうかも皆目判らない時分さ。だから囲碁の名人、将棋の名人だから仲が良いといふ訳ではないんだ。さきに言つた様に馬が合つたのさ。
本因坊はどツちかと言ふとだんまりでむつつり屋、なかなか経済的にもしつかりしてゐたが、私は御承知の様に、ぱアツとしてる方だから、まして若い時分は興に乗れば着てゐる羽織でも着物でも脱いでみんなやつてしまふといふ性格だから、まア陰陽がうまく合つたんだネ。
似てる処か! さうさな、後では碁将棋の名人同志、後先変わらないのは、女好き位のところかネ。アツ、ハツハツハ……。
だが、本因坊のえらい処は、何事にも熱心なところだ。どちらかと言ふと器用な性で、将棋、聯珠、大弓、弓なんかあの痩せつぽちの小さな体躯をしながら相当強いのを引いたからネ。術なんだらう。懲り出すと何でもある程度に達するまで、そりや熱心なんだ。
将棋がさうだつた。素人初段位の腕前があつたが、本職の碁を打つと同様に、よく考へて決して一手も苟しくもしないといふ態度なんだ、あの位の程度ならまア一時間もかゝればせいぜいなのに、本因坊のは考へ込むので二時間も三時間もかゝつた。
これに閉口して将棋会なぞに顔を見せると、
「まア、あなたはお強いんだから見てゐて頂きませう」
なんて敬遠され勝だつたよ。この熱心の態度だな。私は黙つてそばで見てゐて、いつも敬服してゐた。
いちばん最後に逢つたのは、築地の魚利といふ料亭だつた。去年の十一月頃で、その時分喘息で大分弱つてゐたらしいが、それでも酒一本半位呑んだかな。
妙に懐かしがつて、帰りに自動車で私の家のところまで送つて来て呉れた。私の家の隣りの隣りが米内総理の今度のお宅だが、自動車がそこまで這入るんで、そこで車をとめ、私を見送つて、
「関根さん、体を大事にしておくんなさいよ」
と声をかけ、
「俺よりもあんたが」
と笑つて別れた。あれが最後の別れになつた。
熱海へ行くとその時も言つたので、私の知つてゐる家を紹介したが、そこの家へ行つたかどう…