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幕末維新懐古談
ばくまついしんかいこだん
副題03 安床の「安さん」の事
03 やすどこの「やすさん」のこと
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「幕末維新懐古談」 岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日
入力者山田芳美
校正者土屋隆
公開 / 更新2006-02-24 / 2016-01-18
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 町内に安床という床屋がありました。
 それが私どもの行きつけの家であるから、私はお湯に這入って髪を結ってもらおうと、其所へ行った。
「おう、光坊か、お前、つい、この間頭を結ったんじゃないか。浅草の観音様へでも行くのか」
 主人の安さんがいいますので、
「イエ、明日、私は奉公に行くんです」
と答えますと、
「そうかい。奉公に行くのかい。お前は幾齢になった」
などと話しかけられ、十二になったから、八丁堀の大工の家へ奉公に参る旨を話すと、安床は、大工は、職人の王なれば、大工になるは好かろうと大変賛成しておりましたが、ふと、何か思い出したことでもあるように、
「俺は、実は、人から頼まれていたことがあった。……もう、惜しいことをした」
と、残り惜しそうにいいますので、理由を聞くと、それは元、この町内にいた人だが、今は大層出世をして彫刻の名人になっている。何んでも日本一のほりもの師だということだ。その人は高村東雲という方だが、久方ぶりに此店へお出でなすって、安さん、誰か一人好い弟子を欲しいんだが、心当りはあるまいか、一つ世話をしてくれないかと頼んで行ったんだ。俺は、今、お前の話を聞いて、その事を思い出したんだが、実に惜しいことをした……しかし、光坊、お前は大工さんの所へ明日行くことに決まってるというが、それはどうにかならないかい。大工になるのも好いが、彫刻師になる方がお前の行く末のためにはドンナに好いか知れないんだ。……という話を安さんが私の頭を結いながら乗り気になって話しますので、私も子供心にチョイと脳が動いて、
「小父さん、その彫刻師ってのは、あの稲荷町のお店でコツコツやってるあれなんですか」と私は使いに行く途中にその頃あったある彫刻師の店のことをいい出しますと、
「あんなもんじゃないよ。あれは、ほりもの大工で、宮彫りというんだが、俺のいう高村東雲先生の方は、それあ、もっと上品なものなんだ。仏様だの、置き物だの、手間の掛かった、品の好い、本当の彫物をこしらえるんで、あんな、稲荷町の荒っぽいものとは訳が違うんだ。そりゃ上等のものなんだ。だからお前、ただの大工や宮師なんかとは訳が違って素晴らしいんだよ。光坊、お前やる気なら、俺がお前のお父さんに話してやる。どっちも知った顔だから、俺が仲へ這入ってやる」
 こう安さんはしきりと私に勧めます所から、私も何時かその気になって、
「それじゃア小父さん、私は大工よりも彫刻師になるよ」と承知をしました。

 そこで、気の逸い安床は、夜分、仕事をしまってから、私の父を訪ねて参り、時に兼さん、これこれと始終のことをまず話し、それから、
「その東雲という人は、お前の家の隣りにいた人で、それ、日本橋通り一丁目の須原屋茂兵衛の出版した『江戸名所図会』を専門に摺った人で、奥村藤兵衛さんの悴の藤次郎さん、……これがその東雲という方なんで、今では…

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