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落語家たち
らくごかたち
作品ID1557
著者武田 麟太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻29 落語」 作品社
1993(平成5)年7月25日
入力者加藤恭子
校正者菅野朋子
公開 / 更新2000-11-20 / 2014-09-17
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 金車亭が経営不振の果てに、浪花節に城を明け渡したといふ。市内の色物席が次から次へとつぶれて行くと聞く時、この浅草の古い席も時代の波に押されて同じ悲運に際会したのかと思へば、私個人ここに色んな記憶があるせゐも手伝つて何とも寂しい感じがする。
 浪花節になつてから内部を改築したとのことであるが、腰かけにでもしたのだらう。あの話の聞きいい――市内のどの席よりも私はここの雰囲気を愛してゐた。どこかのんびりとしたところは、両脇の障子横に土地の高い浅草らしくもなく冗な空地があつて、それが天ぷらやの清水の裏口とつづいてゐたり、何とはなく間の抜けたルーズさにもよるのだらう。馬の助を愛してゐたと聞く(その馬の助も近頃は大人つぽく巧くなつた)金車亭主人の経営方法にもかうした間の抜けたところがあつたにちがひない。私はそれが好きであつた。
 私たちがおちついて聞きいいといふことはまた、高座の人たちにとつても、何とはなく気の置けないゆつたりした気分になつて話しいいといふことになるのではないか。彼らはここでは肩を張つて稼いでゐるといふよりは、しみじみと寛いで語つてゐるといふに近かつた。自分の芸をたのしんでゐるのである。
 市内の席が寄席復興とやらで洋服を著たお客で溢れかへり、身動きも出来ず火鉢も置けぬ悦ばしい状態を現出してゐるのに、ここだけはそんな景気にならなかつたから不思議である。浅草へ遊びに来る客は、映画やレヴユーまたは十銭漫才を享楽しようとするので、時代に生残つた落語なぞ縁が遠かつたのかも知れない。それにしても地元の人たちのもう少しの後援があつたなら、さうむざむざと、――今更になつてはかへらぬ愚痴だが、そんな気がするのだが、とにかく、あすこまで持ちこたへて来た席亭主人に感謝する。
 寄席復興といはれてゐるものはあれは何であらう。この現象で、落語や落語家がもしもいい気になつてゐたら大まちがひだと思ふ。先に生残つたといふ言葉をつかつたがまさにその通りで、落語家は落語は滅びるものだとの観念をしつかりつかまへる必要があると思ふ。それが本当に落語を愛する途だとしてゐるのだが、如何だらう。落語が現代的に変改が加へられて来たら、歌舞伎の当世風演出と同じくナンセンスなのだ。三語楼の芸風がある時代インテリに大受けして人気をひろめたものの、いかに落語界を毒して、結局は落語の凋落をいかに早めたかを省るがいい。その弟子の金語楼もまた師匠に輪をかけて俗悪な大向う受けばかりねらひ、この二人の出現が本当は落語の衰微を来したといふのは逆説でも何でもない。三語楼は近頃渋さをねらつてゐるが、それもまるで身についてゐないのを見れば正道を行かぬ芸人の気の毒さ(これは何も芸人に限らないことであらうが)を眼の前にして憂鬱至極である。
 蝶花楼馬楽なぞは、この現代的感覚と落語の正味との矛盾に最も悩んでゐるのではないか。真実…

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