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親子一体の教育法
おやこいったいのきょういくほう
作品ID15979
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第三十巻」 新日本出版社
1986(昭和61)年3月20日
初出「女性生活」1941(昭和16)年12月号
入力者柴田卓治
校正者土屋隆
公開 / 更新2007-12-22 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        若々しい時代の影響

 私たちの育った時代の父と母との生活ぶりを考えると、若い生活力の旺な自分たちの生活への態度そのものの中に幼い子供たちをひっくるめて前進して行ったという感じがする。
 もし家庭教育ということを云えば、そういう積極活溌な日常の生活感情が、おのずから親として子供らに対するあらゆる場合の裡に溢れていて、子供の人生への歩みぶりにいつとはなし影響して来ていたと思われる。
 ごく活々としていた家の空気は大人にとっても子供にとっても成長力の漲ったものであったが、それは人間の成熟のために計劃され、整理されたものではなくて自然に、云って見れば父や母の年齢、気質、時代の雰囲気との関係でかもし出されていたものだったから、両親が年をとるにつれて、若々しく克己的で精励だった気分は変化した。そして、大きくなった子供としてはそこに悲しさや苦しさを感じるようなものも生じた。
 或る程度までは誰についても云われることだろうが、うちの父や母は自分たちの時代のいろいろな歴史の性格というものを自分では其と知らず、しかも全幅的に生きた人たちであった。
 今考えて見て、一つの大きい仕合わせだったと思うことは、父も母も、型にはまった家庭教育という枠を、自分たちと子供らとの間からとりはずして大人も子供も一つ屋根の下ではむき出しに生活して行ったことだと思う。明治と共に生きた親たちは、一種の人本主義で、盆栽のような人間の拵えかたには興味を感じないたちであった。人間は人間らしく誰にも十分に生きるべきだし、そういう風に生きてよいものなのだという感情は、家庭の空気の様々な変化を貫いて流れていたと思う。
 親たちは、時によれば子供たちのいるところで喧嘩もしたし、やがては親と子との間に議論もされてゆくという風であった。綺麗ごとで送られる毎日ではなかった。
 母にはなかなか諤々なところがあっていくつ位の時だったか、何かの事でひどく母が私を叱った。私としては自分の心づもりがあってしたことで、どうしても其が悪かったとは思えなかったらしい。悪いと思えないのだから、あやまるということもしにくかったものと思う。いつまでも御免なさいと云わなかったら、じゃあ、お母さまと百合ちゃんと、どっちが間違っているか、わかるまで二人で坐って考えよう、と云って、多分お昼だったのだろうと思うが、一度御飯をずうっとのばして、二人で向い合って坐っていたことがあった。
 おしまいには、どっちが自分の間違いを発見したのだったか、覚えてもいない。それがどういうことだったかも思い出さない。けれども、そう云われて坐っていたということばかりは、よくよくおなかが空きでもしたと見えて、今もはっきり覚えている。

        家の日々の空気が作用する

 そんな思い出の一方には又こんなこともある。
 小学校へ入って程なく音楽がすきだ…

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