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喜光寺
きこうじ
作品ID16036
著者薄田 泣菫
文字遣い旧字旧仮名
底本 「現代日本紀行文学全集 西日本編」 ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日
初出「新小説」1908(明治41)年10月
入力者林幸雄
校正者門田裕志
公開 / 更新2003-04-01 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 佐紀の村外れから、郡山街道について南へ下ると、路の右手に當つて、熟れかかつた麥の穗並の上に、ぬつとした喜光寺の屋根が見える。
 立停つて疲れたやうな屋根の勾配を見てゐると、これまでの旅につひぞ覺えのない寂しい心持になつて來る、どうしたといふのであらう。――今朝奈良を發つて、枚方道を法華寺の邊りで振り返つて見た東大寺の眺めは、譬へやうもない宏大なものだつたが、今の心持はそれとも違ふ。いつだつたかはまた八條村の附近で正面に藥師寺の塔を振り仰いでみた。それはすつきりと調子の整つたものだつたが、今の感じはそれとも異ふ。一口に言つてしまへばそんな歎美の念に充ちたものではなくて、寧ろ衰殘そのものに對ひ合つた寂しい氣持だ。
 私は砂埃のかかつた草の上にどつかと腰をおろした。どつちを向いてみても若々しい生命に充ちた初夏の光景のうちに、どこかかう間の拔けたやうな、古い、大柄な屋根ののつそりと突立つてゐるのを見ると、なんといふ譯もなく、いつぞや讀んだツルゲネエフの『親と子』がふと記憶に上つて來た。あの親爺の名はなんとかいつた。確かニコライ・ペトロヰツチ・キルザノフ―ああさうだ、家は段々と左前になつて來ようとも、それは時の廻合せだと諦め、なんぞと言つては亡くなつた女房の事を考へ出し、唯もう小兒のやうにたあいもなく戀しがつてみたり、さうかと思へば、バザロフの言つたやうに、四十四にもなつて一家の主人が大絃琴でシウベルトの曲を彈いてみたりする、あのニコライ―なんといふ事はない、かうして喜光寺の屋根を見てゐると、初めてあのニコライ親爺に馴染んだ折そつくりの氣持が湧いて來る。
 からりと晴れきつた空に、雲雀が一つ鳴いてゐる。滑かな歌は雫のやうに引切りなしに野に落ちて來る。朽ちてゆく『時』の端々を取逃すまいとするかのやうに、刹那々々に一杯の心持を吹き込めるものと見える。ほんたうに雲雀といへば、いつの世にも現實の謠ひ人で、その歌ときては、また餘裕の無い心と、息も繼げぬ急調とに充ちてゐる。
 …………いつであつたか、あのニコライ親爺が、弟のペバルに向つて、かう言つてこぼした事がある。
「私達はもう時代に後れてゐる。息子といへばずつと先へ行き過ぎてしまつて、どうやらお互に了解しかねるやうになつた。……いつだつたか、私が母と口舌をした時に、母が隨分と口喧しく意地を張り通したもんだから、私もつい口を滑らして『貴方がお解りにならぬのも御無理はありません、二人はすつかり時代が違ふんですもの』と言つた事があつた。すると母は大層機嫌を損はれた容子だつたが、しかし私は思つた、『藥は苦いとして、母はそれを飮まなければならんのだ』と。ところがさ、今度はいよいよこちとらにお鉢が廻つて來たといふものだ。若い奴等は言ふ、『貴君方は現代のお方ではない、さつさとお藥を召し上りませい』とさ。」――
 かう言つたところは、どう…

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