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酒虫
しゅちゅう
作品ID161
著者芥川 竜之介
文字遣い新字旧仮名
底本 「芥川龍之介全集 第一巻」 岩波書店
1995(平成7)年11月8日
初出1916(大正5)年6月「新思潮」
入力者もりみつじゅんじ
校正者林めぐみ
公開 / 更新1998-11-13 / 2014-09-17
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 近年にない暑さである。どこを見ても、泥で固めた家々の屋根瓦が、鉛のやうに鈍く日の光を反射して、その下に懸けてある燕の巣さへ、この塩梅では中にゐる雛や卵を、そのまゝ蒸殺してしまふかと思はれる。まして、畑と云ふ畑は、麻でも黍でも、皆、土いきれにぐつたりと頭をさげて、何一つ、青いなりに、萎れてゐないものはない。その畑の上に見える空も、この頃の温気に中てられたせいか、地上に近い大気は、晴れながら、どんよりと濁つて、その所々に、霰を炮烙で煎つたやうな、形ばかりの雲の峰が、つぶつぶと浮かんでゐる。――「酒虫」の話は、この陽気に、わざ/\炎天の打麦場へ出てゐる、三人の男で始まるのである。
 不思議な事に、その中の一人は、素裸で、仰向けに地面へ寝ころんでゐる。おまけに、どう云ふ訳だか、細引で、手も足もぐる/\巻にされてゐる。が格別当人は、それを苦に病んでゐる容子もない。背の低い、血色の好い、どことなく鈍重と云ふ感じを起させる、豚のやうに肥つた男である。それから手ごろな素焼の瓶が一つ、この男の枕もとに置いてあるが、これも中に何がはいつてゐるのだか、わからない。
 もう一人は、黄色い法衣を着て、耳に小さな青銅の環をさげた、一見、象貌の奇古な沙門である。皮膚の色が並はづれて黒い上に、髪や鬚の縮れてゐる所を見ると、どうも葱嶺の西からでも来た人間らしい。これはさつきから根気よく、朱柄の麈尾をふりふり、裸の男にたからうとする虻や蠅を追つてゐたが、流石に少しくたびれたと見えて、今では、例の素焼の瓶の側へ来て、七面鳥のやうな恰好をしながら、勿体らしくしやがんでゐる。
 あとの一人は、この二人からずつと離れて、打麦場の隅にある草房の軒下に立つてゐる。この男は、頤の先に、鼠の尻尾のやうな髯を、申訳だけに生やして、踵が隠れる程長い[#挿絵]布衫に、結目をだらしなく垂らした茶褐帯と云ふ拵へである。白い鳥の羽で製つた団扇を、時々大事さうに使つてゐる容子では、多分、儒者か何かにちがひない。
 この三人が三人とも、云ひ合せたやうに、口を噤んでゐる。その上、碌に身動きさへもしない、何か、これから起らうとする事に、非常な興味でも持つてゐて、その為に、皆、息をひそめてゐるのではないかと思はれる。
 日は正に、亭午であらう。犬も午睡をしてゐるせいか、吠える声一つ聞えない。打麦場を囲んでゐる麻や黍も、青い葉を日に光らせて、ひつそりかんと静まつてゐる。それから、その末に見える空も、一面に、熱くるしく、炎靄をたゞよはせて、雲の峰さへもこの旱に、肩息をついてゐるのかと、疑はれる。見渡した所、息が通つてゐるらしいのは、この三人の男の外にない。さうして、その三人が又、関帝廟に安置してある、泥塑の像のやうに沈黙を守つてゐる。……
 勿論、日本の話ではない。――支那の長山と云ふ所にある劉氏の打麦場で、或年…

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