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蟇の血
がまのち
作品ID1615
著者田中 貢太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」 国書刊行会
1995(平成7)年7月10日
入力者深町丈たろう
校正者小林繁雄
公開 / 更新2002-12-29 / 2014-09-17
長さの目安約 34 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

      [#挿絵]

 三島讓は先輩の家を出た。まだ雨が残っているような雨雲が空いちめんに流れている晩で、暗いうえに雨水を含んだ地べたがじくじくしていて、はねあがるようで早くは歩けなかった。そのうえ山の手の場末の町であるから十時を打って間もないのに、両側の人家はもう寝てしまってひっそりとしているので、非常に路が遠いように思われてくる。で、車があるなら電車まで乗りたいと思いだしたが、夕方来る時車のあるような処もなかったのですぐそのことは断念した。断念するとともに今まで先輩に相談していた女のことが意識に登って来た。
(もすこし女の身元や素性を調べる必要があるね)と云った先輩の詞が浮んで来た。法科出身の藤原君としては、素性も何も判らない女と同棲することを乱暴だと思うのはもっともなことだが、過去はどうでも好いだろう、この国の海岸の町に生れて三つの年に医師をしていた父に死なれ、母親が再縁した漁業会社の社長をしている人の処で大きくなり、三年前に母が亡くなった比から家庭が冷たくなって来たので、昨年になって家を逃げだしたと云うのがほんとうだろう、血統のことなんかは判らないが、たいしたこともないだろう……。
(一体女がそんなに手もなく出来るもんかね)と云って笑った先輩の詞がふとまた浮んで来る。……なるほど考えて見るとあの女を得たのはむしろ不思議と思うくらいに偶然な機会からであった。しかし、世間一般の例から云ってみるとありふれた珍しくもないことである。己は今度の高等文官試験の本準備にかかる前に五六日海岸の空気を吸うてみるためであったが、一口に云えば壮い男が海岸へ遊びに往っていて、偶然に壮い女と知己になり、その晩のうちに離れられないものとなってしまったと云う、毎日新聞の社会記事の中にある簡単な事件で、別に不思議でもなんでもない。
 女と交渉を持った日の情景がぼうとなって浮んで来る。……黄いろな夕陽の光が松原の外にあったが春の日のように空気が湿っていて、顔や手端の皮膚がとろとろとして眠いような日であった。彼は松原に沿うた櫟林の中を縫うている小路を抜けて往った。それはその海岸へ来てから朝晩に歩いている路であった。櫟の葉はもう緑が褪せて風がある日にはかさかさと云う音をさしていた。
 その櫟林の前はちょっと広い耕地になって、黄いろに染まった稲があったり大根や葱の青い畑があった。そこには櫟林に平行して里川が流れていて柳が飛び飛びに生えている土手に、五六人の者がちらばって釣を垂れていた。人の数こそちがっているが、それは彼が毎日見かける趣であった。その魚釣の中には海岸へ遊びに来ている人も一人や二人はきっと交っていた。そんな人は宿の大きなバケツを魚籃のかわりに持っていて、覗いてみると時たま小さな鮒を一二尾釣っていたり、四五寸ある沙魚を持っていたりする。
 彼が歩いて来た道がその里川に支えられ…

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