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申陽洞記
しんようどうき
作品ID1638
著者田中 貢太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中国の怪談(一)」 河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年5月6日
入力者Hiroshi_O
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2003-08-19 / 2014-09-17
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 元の天暦年間のことであった。隴西に李生という若い男があった。名は徳逢、年は二十五、剛胆な生れで、馬に騎り、弓を射るのが得意であったが生産を事としないので、郷党の排斥を受けて、何人も相手になってくれる者がない。しかたなしに父の友達で桂州の監郡をしている者があるので、その人に依って身を立てようと思って、はるばると桂州へ往ってみると、折角頼みにしていた人が歿くなっていて、世話になることができない。故郷へ帰ろうにも旅費がないので困ったが、その辺は山国で有名な山が多いので、李生はその山へ眼を著けて、猟をして自活をすることに定め、毎日弓を持って山の中へ出かけて往った。
 ある日平生のように弓を持って山へ往ったところで、一匹の鹿が林の中から出てきた。李生は好い獲物と思ったので、急いで矢をつがえて射ようとした。獣は驚いて山の方へ逃げだしたが、その逃げ方が非常に早いので、矢を放すことができない。それでも李生は逃がしてたまるものかという気で、どんどん追っ駈けて往った。獣の姿は木の陰になったり草の中になったりして、李生に矢を放す機会を与えなかった。
 山のうねりがあり、岩の並んでいる谷底があり、雑木の林があった。李生はどこまでもとその獲物を追っ駈けた。落ちかけた夕陽がひょろ長い赤松の幹に射しているのが見えた。獣は見えなくなってしまった。李生はその獲物の姿の隠れて往った谷の下の林の方を見て立った。
 いつの間にか陽が入っていた。紫色に煙って見える遠山の空に一抹の夕映の色が残っていた。李生は驚いて急いで山をおりようとした。方角は判らないが、夕映から見当をつけて、南と思われる方へおりて往った。林の下はうっすらと暮れていた。鳥や獣の啼く物凄い声が谷々に木魂をかえした。山のうねりが来た。李生はそのうねりを登って往った。古廟の屋根が見えた。李生はそれを見ると、そこで夜を明かして朝になって家へ帰ろうと思いだした。彼はその廟を目がけて登って往った。
 古廟は柱が傾き、簷が破れ、落葉の積んだ廻廊には、獣の足跡らしい物が乱雑に著いていた。李生は気味が悪いが他にどうすることもできないので、廡下へ腰をおろし、手にしていた弓を傍へ置いて、四辺に注意しながら休んでいた。廟の前の黒い大木の梢には、二つ三つの星の光があった。
 人の声とも獣の声とも判らない声が聞えてきた。李生は耳を傾けた。それは国王や大官の路を往く時に警蹕するような声であった。その声はしだいに近くなってきた。
 どうも不思議な事だと李生は思った。こうした深山の中で、しかも夜になって警蹕する者は何者であろう。大胆不敵な強盗か、それとも妖怪の類か、とても普通の貴族大官ではあるまい。もしそうだとすると、こうしておることは危険である。これはどこかへ身を隠して、それを見届けたうえで、それに対する手段を考えなければならないと思った。彼はちょっと考えた後で…

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