えあ草紙・青空図書館 - 作品カード


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手紙
てがみ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「芥川龍之介全集6」 ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年3月24日
入力者j.utiyama
校正者かとうかおり
公開 / 更新1999-02-03 / 2014-09-17
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 僕は今この温泉宿に滞在しています。避暑する気もちもないではありません。しかしまだそのほかにゆっくり読んだり書いたりしたい気もちもあることは確かです。ここは旅行案内の広告によれば、神経衰弱に善いとか云うことです。そのせいか狂人も二人ばかりいます。一人は二十七八の女です。この女は何も口を利かずに手風琴ばかり弾いています。が、身なりはちゃんとしていますから、どこか相当な家の奥さんでしょう。のみならず二三度見かけたところではどこかちょっと混血児じみた、輪廓の正しい顔をしています。もう一人の狂人は赤あかと額の禿げ上った四十前後の男です。この男は確か左の腕に松葉の入れ墨をしているところを見ると、まだ狂人にならない前には何か意気な商売でもしていたものかも知れません。僕は勿論この男とは度たび風呂の中でも一しょになります。K君は(これはここに滞在しているある大学の学生です。)この男の入れ墨を指さし、いきなり「君の細君の名はお松さんだね」と言ったものです。するとこの男は湯に浸ったまま、子供のように赤い顔をしました。……
 K君は僕よりも十も若い人です。おまけに同じ宿のM子さん親子とかなり懇意にしている人です。M子さんは昔風に言えば、若衆顔をしているとでも言うのでしょう。僕はM子さんの女学校時代にお下げに白い後ろ鉢巻をした上、薙刀を習ったと云うことを聞き、定めしそれは牛若丸か何かに似ていたことだろうと思いました。もっともこのM子さん親子にはS君もやはり交際しています。S君はK君の友だちです。ただK君と違うのは、――僕はいつも小説などを読むと、二人の男性を差別するために一人を肥った男にすれば、一人を瘠せた男にするのをちょっと滑稽に思っています。それからまた一人を豪放な男にすれば、一人を繊弱な男にするのにもやはり微笑まずにはいられません。現にK君やS君は二人とも肥ってはいないのです。のみならず二人とも傷き易い神経を持って生まれているのです。が、K君はS君のように容易に弱みを見せません。実際また弱みを見せない修業を積もうともしているらしいのです。
 K君、S君、M子さん親子、――僕のつき合っているのはこれだけです。もっともつき合いと言ったにしろ、ただ一しょに散歩したり話したりするほかはありません。何しろここには温泉宿のほかに(それもたった二軒だけです。)カッフェ一つないのです。僕はこう云う寂しさを少しも不足には思っていません。しかしK君やS君は時々「我等の都会に対する郷愁」と云うものを感じています。M子さん親子も、――M子さん親子の場合は複雑です。M子さん親子は貴族主義者です。従ってこう云う山の中に満足している訣はありません。しかしその不満の中に満足を感じているのです。少くともかれこれ一月だけの満足を感じているのです。
 僕の部屋は二階の隅にあります。僕はこの部屋の隅の机に向かい、午…

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