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登山の朝
とざんのあさ
作品ID1680
著者辻村 伊助
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆10 山」 作品社
1983(昭和58)年6月25日
入力者門田裕志
校正者林幸雄
公開 / 更新2003-06-05 / 2014-09-17
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 八月一日はブンデスタークだ、スウィス開国の記念日である。
 二階の寝室で目ざましがチリチリ鳴り出した、腕時計の針はちょうど午前一時を示している、いぎたなく寝込んでしまった近藤君をたたき起こして、隣の室に出ると、上からガイドの連中が降りて来た。外は、山稜にたち切られた空に星が冷たくまたたいて、風はないが非常に寒い。入口の水たまりは、むろん、厚く凍って歯をみがくどころの騒ぎではない。簡単な食事を無理やりにつめこんで、登山服に身をかためて、さて一ぷくたばこを吸った上、室の中から、もうロープで数珠つなぎになって、雪の上に降りた。ちょうど午前二時である。
 カチカチに凍りついた雪を踏みしめて、サック、サック、一足ごとに杖をついて、星明かりに青く光る雪の斜面にかかった時、かつて覚えない緊張した気持ちになった。先登はヘッスラーで、次が私、フォイツは後殿である、ガイドの持ったランターンが、踏み固めた雪路に赤くにじんで、東へ東へと揺れて行く。昨日の跡が凸凹に凍っていて非常に歩きにくい、がそれがなかったなら、ぼーっと一面に螢光を放って、闇に終わる広い雪の斜面に、私たちは取るべき道を迷ったに相違ない。
 星明かりに登る雪路は、昨日すべり降りた足路をたどったのであるが、道が違いはしないかと思われたほど非常に遠く、それに思ったよりも急でなく、どこまで登っても果てがないように感ぜられた。しかしそれは、比較するもののない夜道と、雪の上で非常に手間どったためであったろう。私は危ぶみながら立ち止まって見回した。ランターンの赤くにじむ幾尺のほかは、沙漠のような灰色のフィルンである。
 雪をさんざん登りつめると、急な崖に取っついた、北へ切れれば、シュレック・フィルンから落ちる深い氷河で、雪の反射から黒い崖に移った私たちは、薄暗いランターンに足元の幾平方尺を照らしながら、石垣の塗土のように、岩のかけらに食い込んだ氷に杖を打ち込んで、また東へ向かって登って行った。
 私たちはガッグと呼ばれる岩角に来た。すぐ右手は、シュトラールエックホルンの尾根つづきであるが、頭の上まで薄青く、銀河のようにつづいた積雪のほかには何も見えない。
 雪は、ガッグのはずれから、また急に深くなって、右側の急斜に沿うてぐるっと曲がって行くと、昨日の足跡はそこでばったり止まって、目の前には、ひろびろとした雪田が横たわる、シュレック・フィルンである。
 ろうそくが惜しいので、ランターンを消してしまって、この昨日踏み固めに来た終点で、ひいて来たロープの上に腰をおろして一休みした。三千三百メートルと、地図に記された地点である。
 ランターンを消してしまうと、目はようやく暗がりに慣れて、星明かりが思ったよりも明るくなる。私たちの正面には、クーロアールが胸をつくばかりにつっ立っている。まっ黒にそびえた、そのアレトに境されて、下はクーロア…

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