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文溯閣の四庫全書
ぶんそかくのしこぜんしょ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「内藤湖南全集 第十二卷」 筑摩書房
1970(昭和45)年6月25日
初出「大阪朝日新聞」大阪朝日新聞社、1912(明治45)年7月28日
入力者はまなかひとし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2001-01-27 / 2016-04-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 凡そ書籍の事に注意する人にして、乾隆の四庫全書の名を知らざる者は少からん。此の四庫全書編纂は、乾隆帝一代の大事業にして、其事の記録に見ゆるは、乾隆三十七年(西暦一七七二)正月四日の上諭に始まる。其主意は、乾隆帝は此の時既に二十一史、十三經等を校勘出版し、其他種々の大部の書を編纂したり、尤も書籍の纂集に就ては、康煕年間古今圖書集成なりて一萬餘卷の大部の書となり、類書としては古來の最も大なるものと稱せらるゝも、其の體裁の類書なるが爲に自然引用せられたる原書の全文を載する能はず、故に是れ以上の大蒐集をなし、有らゆる古今の書籍を一に集めんとの考へより此の上諭を發し、各省地方官に對して蒐集の令を下せり。此の翌年即ち乾隆三十八年には朱[#挿絵]の上奏により、この蒐集したる書籍に解題を附する事、及び世間に逸したる書の多く永樂大典(明の永樂年間に韵字分けにて造れる大類書)中に存在すればそれを抽出する事を定め、且つ此の蒐集の完成せし上は四庫全書と命名することに上諭を以て定めたり。この年五月頃に至りて已に浙江並に江南地方の總督巡撫、兩淮の鹽政使等より購入して北京に送りたる書籍は四五千乃至一萬餘種と稱せらる。又世の藏書家にして獻納を希ふ者に對しては、その書を書寫し、校了の後これを本人に返還することに定めたり。翌三十九年に至り、彼の藏書家にして書籍を獻じたる者の内、寧波の范氏其の他に對し、圖書集成、佩文韻府を賜はり、獻書奬勵を示すと同時に、乾隆帝は寧波の范氏の天一閣が明朝以來の有名藏書室として、その建築の完全なるを聞き、この年人を派して其の構造を視察せしめ、將來帝室藏書場建設の料に供せられたり。かくて帝室藏書場の位置を文淵閣と定む、蓋し明以來藏書室のありし場所なるを以て、茲に天一閣の規模に則りて起工し、乾隆帝自ら文淵閣の記を作れり。乾隆四十一年に至り文淵閣を司る吏員の官制をも定めて大體の制定了れり。乾隆四十二年の上諭に據れば、この時既に四庫全書は四通を書寫して上り、他に一部を翰林の藏書とすることゝなり居れり。其の四通の内、一通は北京の文淵閣、一通は圓明園の文源閣、一通は熱河の文津閣、一通は奉天の文溯閣に收むることゝなり、大抵乾隆四十六七年までに完成したるものと思はる。其後乾隆五十五年頃までに更に江南の三閣に一部づゝ四庫全書を傳へたり。三閣とは、揚州の文宗閣、鎭江金山寺の文[#挿絵]閣[#実際には「文宗閣」が「鎭江」に、「文[#挿絵]閣」が「揚州」にあった。]、西湖の聖因寺の文瀾閣これなり。これ等は江南地方は文物の淵叢にして、書籍を見んと欲する者も多からんと思ひ、讀書人の便利のために備へしなり。かくして北方の四閣は天子閲覽の爲に、江南のものは一般公衆の觀覽に供することなるを以て、北方の悉く監生の寫字に成り、字體も大いに同一の體裁を具へて立派なるに反し、南方三閣のものは、筆耕に寫させ…

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