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稲生播磨守
いのうはりまのかみ
作品ID1807
著者林 不忘
文字遣い新字新仮名
底本 「一人三人全集Ⅰ時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」 河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日
初出「講談倶楽部」講談社、1935(昭和10)年1月号
入力者川山隆
校正者松永正敏
公開 / 更新2008-08-19 / 2023-05-19
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

天保のすえ、小石川御箪笥町の稲生播磨守の上屋敷。
諸士の出入りする通用門につづく築地塀の陰。夕方。杉、八つ手などの植込みの根方に、中小姓税所郁之進と、同じく中小姓池田、森の三人が、しゃがんで話しこんでいる。
池田は昂奮し、税所郁之進は蒼白な顔で、腕を組み、うなだれている。

池田 君主は舟、臣は水。舟を浮かべるは水なり。舟を覆すもまた水なり。為政者の心すべきところだ。それだのに殿は――。
森 しっ! 人に聞かれたらどうする。税所の迷惑を考えろ。
奥に何か催しがあるらしく、羽織袴の藩士たちが続々門をはいって来て、声高に談笑しながら、三人の横を通り過ぎて行く。
池田 いや、このたびの殿の御乱行には、彼らの中の心ある士は、みな眉を顰めておるのだ。聞こえたとてかまわん。
森 税所! 貴公の心中は察するぞ。いったいいつこんなことになったのだ。
郁之進 (二十四、五の美男。低いふるえ声で)もうその話は止してくれ。おれは何とかして忘れよう、この胸から取り去ろうと努めているのに、君らはそうやって僕を問い詰めるとは惨酷じゃあないか。
池田 (森と顔を見合わせて)もっともだ。そう思うのも無理はない――が、おれたちは貴公に同情して、友人として君を慰めようと――。
郁之進 その友情があったら、何も言わんでくれと頼んでおるのだ。
森 しかし、黙視するに忍びんから――。
郁之進 黙視できぬ? では、森に訊こう。どうしたらよいというのだ。
池田と森は無言に落ちる。
郁之進 (せせら笑って)それ見ろ。口を噤むよりしようがあるまい。長いものに捲かれろという言葉もある。いや、さような俗言を藉らずとも、先は殿だ。何のおれに、恨みがましい気持ちがあってなるものか。そんな心は微塵もないぞ。(言いきる)
池田 藩主と家臣――藩主は、欲しいものがあったら、家来から何を奪ってもいいものだろうか。新婚の夢円らかな妻をさえも――こういう主従の制度は、いったい誰が決めたのだ。
郁之進も森も、考えこむ。
池田 要するに、扶持米を貰って食わせてもらっておるから、頭をさげる。それだけのことじゃあないか。おれは、こういう世の中の仕組みは、遠からず瓦解するものと思う。何かしら大きな変動が来るような気がしてならんのだ。いや、来べきだ。どことなく、そのにおいがする。
森 (恐しそうに)おれたち武士の先祖たちは、ほんとうに、主君に対して文字どおり絶対服従だったのだろうか。
池田 そりゃむろんそうだとも。おれたちもそれを教え込まれてきた。叩きこまれてきた――だが、おれは近ごろ、人間と人間とのそうした関係に、どうも疑いを持ちはじめてきたのだ。これでいいものかどうかと――。
森 主君の欲するところには、絶対に服従する。ふふうむ、絶対に、理も非もなく――。
池田 何らの大義名分がなくとも、腹を切れと言われれば、即座に腹を切る――切れる…

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