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新版 放浪記
しんぱん ほうろうき
作品ID1813
著者林 芙美子
文字遣い新字新仮名
底本 「新版 放浪記」 新潮文庫、新潮社
1979(昭和54)年9月30日
初出「女人藝術」1928(昭和3)年10月号~1930(昭和5)年10月号
入力者任天堂株式会社
校正者松永正敏
公開 / 更新2008-06-28 / 2014-09-21
長さの目安約 504 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     第一部

[#改ページ]

     放浪記以前

 私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

更けゆく秋の夜 旅の空の
侘しき思いに 一人なやむ
恋いしや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。――八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の糶売をして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖の天草から逃げて来た浜と云う芸者を家に入れていた。雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。若松と云うところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。
 今の私の父は養父である。このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れていた人だ。私は母の連れ子になって、この父と一緒になると、ほとんど住家と云うものを持たないで暮して来た。どこへ行っても木賃宿ばかりの生活だった。「お父つぁんは、家を好かんとじゃ、道具が好かんとじゃ……」母は私にいつもこんなことを云っていた。そこで、人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出を持って、私は美しい山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。ざっこく屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京町近くの小学校へ通って行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾と言った順に、四年の間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。
「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」
 せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが厭になっていたのだ。それは丁度、直方の炭坑町に住んでいた私の十二の時であったろう。「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ……」遊ばせてはモッタイナイ年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。


 直方の町は明けても暮れても煤けて暗い空であった。砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の馬屋と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物…

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