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井戸の底に埃の溜つた話
いどのそこにほこりのたまったはなし
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆33 水」 作品社
1985(昭和60)年7月25日
入力者砂場清隆
校正者Tomoko.I
公開 / 更新2000-11-04 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 よく田舎にある、野つ原の真ん中に、灌木だの歯朶だのに、穴の縁を茂らせて、底には石や土が、埋めかけて匙を投げてある、あの古井戸の底になら、埃が溜つたつて、別に面白くも可笑しくもない。
 ところが、私の今云はうとしてゐる井戸は、一方には夫婦と三人の子供、もう一方には夫婦と二人の子供が、現在住んでゐる、その共通の井戸の事なのである。
 その共同の井戸に、然も蓋がしてあるのに、埃が底に溜つてしまつたのである。
 空気だの、日光だの、水などと云ふものは、そいつがふんだんにある場合には、些も不自由を感じないし、従つて有難味も分らないものだが、一旦、無いとなると、さあ事だ。
「水が飲みたあい」
 と、炎天の下で乾物になりさうな程も、焙られて怒鳴りながら駆けて、帰つた子供たちは、井戸に飛びついてポムプを押すのだが、井戸からは一滴の水も出ないのだ。出るのは、スー、フー、スー、フー、とポムプの溜息ばかりなのだ。
 子供は、そこで、おふくろが、どつかから貰ひ水してあるバケツに飛びつく。ところが、その水たるや貴重なものである。洗濯などには一滴たりとも使へはしないし、顔だつて二ヶ月も洗つた事は無いのだ。
 さう云ふ貴重な水なれば、子等が飲むのには柄杓に二杯も飲ませはする。
 が、子供等が、甘露々々と飲んだ揚句が騒動である。
 附近一帯の水涸れで、工面のいい家は、どん/\井戸を掘り下げたり、水道を引いたりして、文字通り「涼しい顔」をしてゐられるのであるが、この埃の溜つた井戸の使用者は借家人であり、その家主は、前代は財布の紐で首でも吊つたんではないか、と疑はざるを得ない吝ん坊なのである。
「井戸から水が出ない」
 と借家人が云ふと、
「お天陽様のやる事は、家主が責任を負ふ訳には行かない」
 と、この家主の老人は、舌さへ動かし惜しみつゝ答へる。
「それでも隣の家の井戸からは、フンダンに水が出るが」
 と云ふと、
「わしは、その隣の井戸を覗いた訳ではない」
 酒屋の景品券じやあるまいし、この因業家主は店子を「焙り出す」心算でゐるのだ。
 そこで、焙り出されかけた家の子供等は、「水」と云ふものに、原始アラビア人が覚えた程も、驚異と礼讚の念を抱くやうになつたのである。
 だもんだから、近所隣で井戸を掘り下げると、そこで最初はおとなしく見物してゐるが、水気を含んだ土が出て来、土混りの赤又は黒の水が出るに及んでは、子供心に冷静を失つてしまふのである。
 自分の家の井戸の底には、埃が溜つてゐる事も何も忘れ去つて、泥んこの水の中を、四つん匍ひになつて匍ひ廻り、こねまはして、「水が飲みたあい」と怒鳴りながら帰つた時は、おふくろが、洗濯を思ひ出さざるを得ない、悪鬼羅刹の形相に化し終つてゐるのである。
 そこで、子等は柄杓に一杯又は二杯の生ぬるい水を、一息に呷つた後で、尻をペタ/\と叩かれるのである。
 お…

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