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若水の話
わかみずのはなし
作品ID18392
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 2」 中央公論社
1995(平成7)年3月10日
初出「古代研究 第一部 民俗学篇第一」1929(昭和4)年4月10日
入力者門田裕志
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2006-04-13 / 2014-09-18
長さの目安約 34 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



ほうっとする程長い白浜の先は、また目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、自づと伸し上る様になつて、頭の上まで拡がつて来てゐる空だ。其が又、ふり顧ると、地平をくぎる山の外線の、立ち塞つてゐる処まで続いてゐる。四顧俯仰して目に入るものは、此だけである。日が照る程風の吹くほど、寂しい天地であつた。さうした無聊な目を[#挿絵]らせる物は、忘れた時分にひよつくりと、波と空との間から生れて来る――誇張なしに――鳥と紛れさうな刳り舟の姿である。遠目には磯の岩かと思はれる家の屋根が、ひとかたまりづゝ、ぽっつりと置き忘られてゐる。琉球の島々には、行つても/\、こんな島ばかりが多かつた。
我々の血の本筋になつた先祖は、多分かうした島の生活を経て来たものと思はれる。だから、此国土の上の生活が始つても、まだ万葉人までは、生の空虚を叫ばなかつた。「つれ/″\」「さう/″\しさ」其が全内容になつてゐた、祖先の生活であつたのだ。こんなのが、人間の一生だと思ひつめて疑はなかつた。又さうした考へで、ちよつと見当の立たない程長い国家以前の、先祖の邑落の生活が続けられて来たのには、大きに謂はれがある。去年も今年も、又来年も、恐らくは死ぬる日まで繰り返される生活が、此だと考へ出した日には、たまるまい。
郵便船さへ月に一度来ぬ勝ちであり、島の木精がまだ一度も、巡査のさあべるの音を口まねた様な事のない処、巫女や郷巫などが依然、女君の権力を持つてゐる離島では、どうかすればまだ、さうした古代が遺つてゐる。稀には、那覇の都にゐた為、生き詮なさを知つて、青い顔して戻つて来る若者なども、波と空と沙原との故郷に、寝返りを打つて居ると、いつか屈托など言ふ贅沢な語は、けろりと忘れてしまふ。我々の先祖の村住ひも、正に其とほりであつた。村には歴史がなかつた。過去を考へぬ人たちが、来年・再来年を予想した筈はない。先祖の村々で、予め考へる事の出来る時間があるとしたら、作事はじめの初春から穫り納れに到る一年の間であつた。昨年以前を意味する「こそ」と言ふ語は、昨日以前を示す「きそ」から、後代分化して来たのであつた。後年だから、仮字遣ひはおとゝしと、合理論者がきめた一昨年も、ほんとうはさうでない。をとゝしの「をと」には、中に介在するものを越した彼方を意味する「をち」と言ふ語が含まれてゐるのだ。去年の向うになつてゐる前年の義で「彼年」である。一つ宛隔てゝ、同じ状態が来ると言ふ考へ方が、邑落生活に稍歴史観が現れかける時になつて、著しく見えて来る。祖父と子が同じ者であり、父と孫との生活は繰り返しであると言ふ信仰のあつた事は、疑ふことの出来ぬ事実だ。ひよつとすると、其頃になつて、暦の考へが此様に進んで来たのかも知れぬ。
去年と今年とを対立させて居たのである。其違つた条件で進む二つの年が、常に交替するものとしてゐたと言うても、よ…

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