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偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道
ぐうじんしんこうのみんぞくかならびにでんせつかせるみち
作品ID18396
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 3」 中央公論社
1995年4月10日
入力者門田裕志
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2006-05-16 / 2014-09-18
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 祝言の演劇化

万葉巻十六の「乞食者詠」とある二首の長歌は、ほかひゞとの祝言が、早く演劇化した証拠の、貴重な例と見られる。二首ながら、二つの生き物の、からだの癖を述べたり、愁訴する様を歌うたりして居るが、其内容から見ても、又表題の四字から察しても、此歌には当然、身ぶりが伴うて居たと考へてよい。「詠」はうたと訓み慣れて来たが、正確な用字例は、舞人の自ら諷誦する詞章である。
此歌は、鹿・蟹の述懐歌らしいものになつて居るが、元は農業の、害物駆除の呪言から出て居る。即、田畠を荒す精霊の代表として、鹿や蟹に、服従を誓はす形の呪言があり、鹿や蟹に扮した者の誓ふ、身ぶりや、覆奏詞があつた。此副演出の部分が発達して、次第に、滑稽な詠、をこな身ぶりに、人を絶倒させるやうな演芸が、成立するまでに、変つたのだと思ふ。
其身ぶりを、人がしたか、人形がしたかは訣らない。併し、呪言の副演出の本体は、人体であるが、もどき役に廻る者は、地方によつて、違うて居た。人間であつた事も勿論あるが、ある国・ある家の神事に出る精霊役は、人形である事もあり、又鏡・瓢などを顔とした、仮りの偶人である事もあつた。此だけの事は、考へてよい根拠が十分にある。
ほかひゞとは、細かに糺して見ると、くゞつとおなじ者でない処も見える。併し、此ほかひゞとの中に、沢山のくゞつも交つて居た事は考へてよい。私は、くゞつ・傀儡子同種説は、信ずる事が出来ないで居るが、くゞつの名に宛て字せられた、傀儡子の生活と、何処までも、不思議に合うて居るのは、事実である。
くゞつの民の女が、人形を舞はした事は、平安朝の中期に文献がある。其盛んに見えたのは、真に突如として、室町の頃からであるが、以前にも、所々方々に、下級の神人や、くゞつの手によつて行はれて居た。此団体が、摂津広田の西ノ宮から起つた様に見えるのは、恐らく、新式であつた為、都人士に歓ばれたからであらう。
西ノ宮一社について見れば、祭り毎に、海のあなたから来り臨む神の形代としての人形に、神の身ぶりを演じさせて居たのが、うかれびとの祝言に使はれた為に、門芸としての第一歩を、演芸の方に踏み入れる事になつたのだと思はれる。

二 八幡神の伴神

祭礼に人形を持ち出す社は、今でも諸地方にある。殊に、八幡系統の神社に著しい。八幡神は、疑ひもなく、奈良朝に流行した新来の神である。私は、日本の仏教家の陰陽道が、将来した神ではないかと考へて居る。譬へば、すさのをの命を、牛頭天王と言うたり、武塔天神と言うたりする様に、八幡神も、多分に陰陽道式のものを持つて居る。仏教式に合理化せられ、習合せられた新来神と言へさうだ。
其はとにかく、此神が、兇暴な神である様に見られたのは、八幡神自身が、兇暴と言ふよりも、西から上つて来る途中、其土地々々の、兇悪な土地神を征服して、此を部下にして行つた、其為だと思はれる。…

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