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雪の島
ゆきのしま
作品ID18409
副題熊本利平氏に寄す
くまもとりへいしによす
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 3」 中央公論社
1995年4月10日
入力者高柳典子
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2007-07-27 / 2014-09-21
長さの目安約 42 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

志賀の鼻を出離れても、内海とかはらぬ静かな凪ぎであつた。舳の向き加減で時たまさし替る光りを、蝙蝠傘に調節してよけながら、玄海の空にまつ直に昇る船の煙に、目を凝してゐた。艫のふなべり枕に寝てゐて、しぶき一雫うけぬ位である。時々、首を擡げて見やると、壱州らしい海神の頭飾の島が、段々寄生貝になり、鵜の鳥になりして、やつと其国らしい姿に整うて来た。あの波止場を、此発動機の姉さんの様な、巡航汽船が出てから、もう三時間も経つてゐる。大海の中にぽつんと産み棄てられた様な様子が「天一柱」と言ふ島の古名に、如何にもふさはしいといふ聯想と、幽かな感傷とを導いた。
土用過ぎの日の、傾き加減になつてから、波ばかりぎら/\光る、蘆辺浦に這入つた。目の醍めた瞬間、ほかにも荷役に寄つた蒸汽があるのかと思うた。それ程、がらにない太い汽笛を響して、前岸の瀬戸の浜へかけて、はしけの客を促して居る。博多から油照りの船路に、乗り倦ねた人々は、まだ郷野浦行きの自動車の間には合ふだらうかなどゝ案じながらも、やつぱりおりて行つた。
島にもかうした閑雅が見出されるかと、行かぬ先から壱岐びとに親しみと、豊かな期待を持たせられたのは、先の程まで、私の近くに小半日むっつりと波ばかり眺めて居た少年であつた。福岡大学病院の札のついた薬瓶を持つて居る様だから、多分、投げ出して居た、その繃帯した脚の手術を受けに行つて居たのであらう。膝きりの白飛白の筒袖に、ぱんつの様な物をつけて、腰を瓢箪くびりに皮帯で締めてゐた。十六七だらう。日にも焦けて居ない。頬は落ちて居るが、薄い感じの皮膚に、少年期の末を印象する億劫さうな瞳が、でも、真黒に瞬いてゐた。船室へ乗りあひの衆がおりて行つて後も、前後四時間かうして無言に青空ばかり仰いでゐる私の側に、海の面きり眺めてゐた。
時々頭を擡げると、いつも此少年の目に触れた。大学病院へ通つてゐましたか、ぐらゐの話を、人みしりする私でもしかけて見たくなつた程、好感に充ちた無言の行であつた。島の村々を、※[#「魚+昜」、90-10]・干し鰒買ひ集めに、自転車で廻る小さい海産物屋の息子で、丁稚替りをさせられてゐる、と言つた風の姿である。其でゐて、沖縄に四十日ゐて、渋紙から目だけ出してゐる様な、頬骨の出張つた、人を嘲る様に歯並みの白く揃うた男女の顔ばかり見て暮した目のせゐか、東京の教養ある若者にも、ちよつとない静けさだと思つた。なる程、壱岐には京・大阪の好い血の流れが通うてゐる。早合点に、私は予定の二十日は、気持ちよく、島人と物を言ひ合ふ事の出来さうな気を起してゐた。
此島では、つひ七十年前まで、上方の都への消息に「もしほたれつゝ」わびしい光陰の過し難さを訴へてやつた人たちが住んでゐた。「愍然想つてくれ召せや」と磯藻の様になづさひ寄る濃い情に、欠伸を忘れる暇もあつた。幾代の、さうした教養あ…

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