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霊魂の話
れいこんのはなし
作品ID18412
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 3」 中央公論社
1995年4月10日
初出「民俗学 第一巻第三号」1929(昭和4)年9月
入力者高柳典子
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2006-04-02 / 2014-09-18
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       たまとたましひと
たまとたましひとは、近世的には、此二つが混乱して使はれ、大ざつぱに、同じものだと思はれて居る。尤、中には、此二つに区別があるのだらうと考へた人もあるが、明らかな答へはない様である。私にもまだ、はつきりとした説明は出来ないが、多少の明りがついた。其を中心に話を進めて見たいと思ふ。
古く日本人が考へた霊魂の信仰は、後に段々変つて行つて居る。民間的に――知識の低い階級によつて――追ひ/\に組織立てられ、統一づけられた霊魂の解釈が加はつて行つた為だと思ふ。だから其中から、似寄つたものをとり出して、一つの見当をつける事は、却々困難であるが、先大体、たまとたましひとは、違ふものだと言ふ見当だけをつけて、此話を進めたい。いづれ、最初にたまの考へがあつて、後にたましひの観念が出て来たのだらう、と言ふ所に落ちつくと思ふ。
       たまの分化――神とものと
日本人のたまに対する考へ方には、歴史的の変化がある。日本の「神」は、昔の言葉で表せば、たまと称すべきものであつた。それが、いつか「神」といふ言葉で飜訳せられて来た。だから、たまで残つて居るものもあり、神となつたものもあり、書物の上では、そこに矛盾が感じられるので、或時はたまとして扱はれ、或所では、神として扱はれて居るのである。
たまは抽象的なもので、時あつて姿を現すものと考へたのが、古い信仰の様である。其が神となり、更に其下に、ものと称するものが考へられる様にもなつた。即、たまに善悪の二方面があると考へるやうになつて、人間から見ての、善い部分が「神」になり、邪悪な方面が「もの」として考へられる様になつたのであるが、猶、習慣としては、たまといふ語も残つたのである。
先、最初にたまの作用から考へて見る。
我々の祖先は、ものの生れ出るのに、いろ/\な方法・順序があると考へた。今風の言葉で表すと、其代表的なものとして、卵生と胎生との、二つの方法があると考へた。古代を考へるのに、今日の考へを以てするのは、勿論いけない事だが、此は大体、さう考へて見るより為方がないので、便宜上かうした言葉を使ふ。此二つの別け方で、略よい様である。
胎生の方には大して問題がないと思ふから、茲では、卵生に就いて話をする。さうすると、たまの性質が訣つて来ると思ふ。
       なる・うまる・ある
古いもので見ると、なると言ふ語で、「うまれる」ことを意味したのがある。なる・うまる・あるは、往々同義語と考へられて居るが、あるは、「あらはれる」の原形で、「うまれる」と言ふ意はない。たゞ「うまれる」の敬語に、転義した場合はある。万葉などにも、此語に、貴人の誕生を考へたらしい用語例がある。けれども、厳格には、神聖なるものゝ「出現」を意味する言葉であつて、貴人に就いて「みあれ」と言うたのも、あらはれる・出現に近い意を表したと見られる…

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