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永遠のみどり
えいえんのみどり
作品ID1856
著者原 民喜
文字遣い新字新仮名
底本 「夏の花・心願の国」 新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日
入力者tatsuki
校正者林幸雄
公開 / 更新2002-01-01 / 2014-09-17
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 梢をふり仰ぐと、嫩葉のふくらみに優しいものがチラつくようだった。樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めていた。吉祥寺の下宿へ移ってからは、人は稀れにしか訪ねて来なかった。彼は一週間も十日も殆ど人間と会話をする機会がなかった。外に出て、煙草を買うとき、「タバコを下さい」という。喫茶店に入って、「コーヒー」と註文する。日に言語を発するのは、二ことか三ことであった。だが、そのかわり、声にならない無数の言葉は、絶えず彼のまわりを渦巻いていた。
 水道道路のガード近くの叢に、白い小犬の死骸がころがっていた。春さきの陽を受けて安らかにのびのびと睡っているような恰好だった。誰にも知られず誰にも顧みられず、あのように静かに死ねるものなら……彼は散歩の途中、いつまでも野晒しになっている小さな死骸を、しみじみと眺めるのだった。これは、彼の記憶に灼きつけられている人間の惨死図とは、まるで違う表情なのだ。

「これからさき、これからさき、あの男はどうして生きて行くのだろう」――彼は年少の友人達にそんな噂をされていた。それは彼が神田の出版屋の一室を立退くことになっていて、行先がまだ決まらず、一切が宙に迷っている頃のことだった。雑誌がつぶれ、出版社が倒れ、微力な作家が葬られてゆく情勢に、みんな暗澹とした気分だった。一そのこと靴磨になろうかしら、と、彼は雑沓のなかで腰を据えて働いている靴磨の姿を注意して眺めたりした。
「こないだの晩も電車のなかで、FとNと三人で噂したのは、あなたのことです。これからさき、これからさき、どうして一たい生きて行くのでしょうか」近くフランスへ留学することに決定しているEは、彼を顧みて云った。その詠嘆的な心細い口調は、黙って聞いている彼の腸をよじるようであった。彼はとにかく身を置ける一つの部屋が欲しかった。
 荻窪の知人の世話で借れる約束になっていた部屋を、ある日、彼が確かめに行くと、話は全く喰いちがっていた。茫然として夕ぐれの路を歩いていると、ふと、その知人と出逢った。その足で、彼は一緒に吉祥寺の方の別の心あたりを探してもらった。そこの部屋を借りることに決めたのは、その晩だった。
 騒々しい神田の一角から、吉祥寺の下宿の二階に移ると、彼は久し振りに自分の書斎へ戻ったような気持がした。静かだった。二階の窓からは竹藪や木立や家屋が、ゆったりと空間を占めて展望された。ぼんやり机の前に坐っていると、彼はそこが妻と死別した家のつづきのような気持さえした。五日市街道を歩けば、樹木がしきりに彼の眼についた。楢、欅、木蘭、……あ、これだったのかしら、久しく恋していたものに、めぐりあったように心がふくらむ。……だが、微力な作家の暗澹たる予想は、ここへ移っても少しも変ってはいなかった。二年前、彼が広島の土地を売って得た金が、まだほんの少し手許に残っていた。それはこのさき三…

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