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福翁自伝
ふくおうじでん
作品ID1864
副題02 福翁自伝
02 ふくおうじでん
著者福沢 諭吉
文字遣い新字新仮名
底本 「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」 慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日
初出「時事新報」時事新報社、1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
入力者田中哲郎
校正者りゅうぞう
公開 / 更新2017-06-15 / 2017-07-21
長さの目安約 422 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々自から伝記を記すの例あるを以て、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しく之を勧めたるものありしかども、先生の平生甚だ多忙にして執筆の閑を得ずその儘に経過したりしに、一昨年の秋、或る外国人の需に応じて維新前後の実歴談を述べたる折、風と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自から校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるまゝに語りしものなれば、恰も一場の談話にして、固より事の詳細を悉くしたるに非ず。左れば先生の考にては、新聞紙上に掲載を終りたる後、更らに自から筆を執てその遺漏を補い、又後人の参考の為めにとて、幕政の当時親しく見聞したる事実に拠り、我国開国の次第より幕末外交の始末を記述して別に一編と為し、自伝の後に付するの計画にして、既にその腹案も成りたりしに、昨年九月中、遽に大患に罹りてその事を果すを得ず。誠に遺憾なれども、今後先生の病いよ/\全癒の上は、兼ての腹案を筆記せしめて世に公にし、以て今日の遺憾を償うことあるべし。

明治三十二年六月
時事新報社 石河幹明 記
[#改ページ]

幼少の時


 福澤諭吉の父は豊前中津奥平藩の士族福澤百助、母は同藩士族、橋本浜右衛門の長女、名を於順と申し、父の身分はヤット藩主に定式の謁見が出来ると云うのですから足軽よりは数等宜しいけれども士族中の下級、今日で云えば先ず判任官の家でしょう。藩で云う元締役を勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷に長く勤番して居ました。夫れゆえ家内残らず大阪に引越して居て、私共は皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。
兄弟五人中津の風に合わず扨中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所に混和することが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方の従兄弟もあれば母方の従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許もある、あるけれどもその者等とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云う所を、私共は「そうでおます」なんと云うような訳けで、お互に可笑しいから先ず話が少ない。夫れから又母は素と中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、小供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合の着物を着せるから自…

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