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続文芸的な、余りに文芸的な
ぞくぶんげいてきな、あまりにぶんげいてきな
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」 筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日
初出「文藝春秋」1927(昭和2)年7月
入力者j.utiyama
校正者かとうかおり
公開 / 更新1999-02-02 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一 「死者生者」

「文章倶楽部」が大正時代の作品中、諸家の記憶に残つたものを尋ねた時、僕も返事をしようと思つてゐるうちについその機会を失つてしまつた。僕の記憶に残つてゐるものはまづ正宗白鳥氏の「死者生者」である。これは僕の「芋粥」と同じ月に発表された為、特に深い印象を残した。「芋粥」は「死者生者」ほど完成してゐない。唯幾分か新しかつただけである。が、「死者生者」は不評判だつた。「芋粥」は――「芋粥」の不評判だつたのは吹聴せずとも善い。「読後感とでも云ふのかな。さう云ふものの深い短篇だね。」――僕は当時久米正雄君の「死者生者」を読んだ後、かう言つたことを覚えてゐる。が、「文章倶楽部」の問に応じた諸家は誰も「死者生者」を挙げてゐなかつたらしい。しかも「芋粥」は幸か不幸か諸家の答への中にはいつてゐる。
 この事実の証明する通り、世人は新らしいものに注目し易い。従つて新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれるのである。しかしそれは必ずしも一爪痕を残すことではない、僕は未だに「死者生者」は「芋粥」などの比ではないと思つてゐる、のみならず又正宗氏自身も短篇作家としては、「死者生者」を書いた前後に最も芸術的ではなかつたかと思つてゐる。が、当時の正宗氏は必ずしも人気はなかつたらしい。

     二 時代

 僕は時々かう考へてゐる。――僕の書いた文章はたとひ僕が生まれなかつたにしても、誰かきつと書いたに違ひない。従つて僕自身の作品よりも寧ろ一時代の土の上に生えた何本かの艸の一本である。すると僕自身の自慢にはならない。(現に彼等は彼等を待たなければ、書かれなかつた作品を書いてゐる。勿論そこに一時代は影を落してゐるにしても。)僕はかう考へる度に必ず妙にがつかりしてしまふ。

     三 日本の文芸の特色

 日本の文芸の特色、――何よりも読者に親密(intime)であること。この特色の善悪は特に今は問題にしない。

     四 アナトオル・フランス

 Nicolas S[#挿絵]gur の「アナトオル・フランスとの対話」によれば、この微笑した懐疑主義者は実に徹底した厭世主義者である。かう云ふ一面は Paul Gsell の「アナトオル・フランスとの対話」(?)にも現はれてゐない。彼は「あなたの作中人物は皆微笑してゐるではないか?」といふ問に対し、野蛮にもかう返事をしてゐる。――「彼等は憐憫の為に微笑してゐる。それは文芸上の技巧に過ぎない。」
 このアナトオル・フランスの説によれば人生は唯意志する力と行為する力との上に安定してゐる。しかし我々は意志する為には一点に目を注がなければならぬ。それは何びとにも出来ることではない。殊に理智と感受性との呪ひを受けた我々には。
「エピキユウルの園」の思想家、ドレフイイユ事件のチヤンピオン、「ペングインの島」の作…

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