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海浜一日
かいひんいちじつ
作品ID1968
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第三巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日
初出「若草」1927(昭和2)年4月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2002-10-27 / 2014-09-17
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 発動機の工合がわるくて、台所へ水が出なくなった。父が、寝室へ入って老人らしい鳥打帽をかぶり、外へ出て行った。暖炉に火が燃え、鳩時計は細長い松ぼっくりのような分銅をきしませつつ時を刻んでいる。露台の硝子越しに見える松の並木、その梢の間に閃いている遠い海面の濃い狭い藍色。きのう雪が降ったのが今日は燦らかに晴れているから、幅広い日光と一緒に、潮の香が炉辺まで来そうだ。光りを背に受けて、露台の籐椅子にくつろいだ装で母がいる。彼女は不機嫌であった。いつも来る毎に水がうまく出ないから腹を立てるのであった。
「――今度は私がその何とか云う男にじかに会ってみっちり言ってやる。いくら計算は計算でも水が出なけりゃ迷惑をするのは私達ばかりだ」
 編物をしながら、上の娘の佐和子が、
「計算て何なの」
と訊いた。彼女は結婚して親たちとは別に暮していたから、この別荘に来たのもそれが二度目であった。
「いいえね、理論の上からではここの水は半馬力の発動機できっと上る筈だと云うんだよ。自分がそう主張して半馬力のを据えつけたんだから、どうしてもそれでやらなけりゃ面目が潰れるって云うんで、幾度も幾度もなおすんだがね――無理なのさ」
「――一馬力ならいいんだって、ね……」
 長椅子の隅に丸まって少女雑誌を読んでいた晴子が、顔を擡げおかっぱの髪を頬から払いのけながら、意を迎えるように口を挾んだ。
「そうなのさ」
 母は益々不機嫌に、
「だから始っから、父様さえちゃんとしてとりかえさせておしまいになればいいのに――もう二年だよ、来るたんびに水が出ない、水が出ないって」
 母は糖尿病であった。それ故じき癇癪が起り、腹が減り、つまり神経が絶えず焦々している気の毒な五十三の年寄りであったけれども、彼女の良人は、健康でこそあれもう六十で、深く妻を愛している矢張り一人の老人だ。佐和子は、結婚生活をする娘の独特な心持で両親の生活を思い、
「まあそう癇癪をお起しなさらない方がいいわ」
となだめた。
「父様だってああやって一生懸命やっていらっしゃるんだから――この次までに一馬力のにさせとけばいいじゃあないの」
 発動機が動きだしたと見え、コットン、コットン水を吸い上げる音が聞えて来た。二三分して、再び止ってしまった。もう動かないらしい。扉をあけ、父がやめて来たかと思ったら、それはみわであった。
「まあ旦那様本当に恐れ入りますでございますね、お寒いのにあんなお働きいただきましては……」
「駄目かい?」
「はあ――どうしたんでございましょう。一寸動きましてやれうれしやと存じましたら、またとまってしまいまして」
 みわは、そう言いながら煎じ薬を茶碗についで母にすすめた。
「なに、御自分がわるいのさ――お前にはとんだお気の毒だね、こんなとこまで来て水汲みまでさせちゃ」
 みわは、小作りな女で何だか見当が違っているような眼つ…

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