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刻々
こくこく
作品ID1986
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第四巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年9月20日
初出「中央公論」1951(昭和26)年3月号
入力者柴田卓治
校正者松永正敏
公開 / 更新2002-06-03 / 2014-09-17
長さの目安約 75 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 朝飯がすんで、雑役が監房の前を雑巾がけしている。駒込署は古い建物で木造なのである。手拭を引さいた細紐を帯がわりにして、縞の着物を尻はし折りにした与太者の雑役が、ズブズブに濡らした雑巾で出来るだけゆっくり鉄格子のこま一つ一つを拭いたりして動いている。
 夜前、神明町辺の博士の家とかに強盗が入ったのがつかまった。看守と雑役とが途切れ、途切れそのことについて話すのを、留置場じゅうが聞いている。二つの監房に二十何人かの男が詰っているがそれらはスリ、かっぱらい、無銭飲食、詐欺、ゆすりなどが主なのだ。
 看守は、雑役の働く手先につれて彼方此方しながら、
「この一二年、めっきり留置場の客種も下ったなア」
と、感慨ありげに云った。
「もとは、滅多に留置場へなんか入って来る者もなかったが、その代り入って来る位の奴は、どいつも娑婆じゃ相当なことをやって来たもんだ。それがこの頃じゃどうだ! ラジオ(無銭飲食)だ、ナマコ一枚だ、で留置場は満員だものなア。きんたまのあるような奴が一人でもいるかね[#挿絵]」
 保護室でぶつくさ、暗く、反抗的に声がした。
「ひっぱりようがこの頃と来ちゃア無茶だもん。うかうか往来も歩けやしねえや」
 満州で侵略戦争を開始し、戦争熱をラジオや芝居で煽るようになってから、皮肉なことにカーキ色の癈兵の装で国家のためと女ばかりの家を脅かす新手の押売りが流行り、現に保護室にそんなのが四五人引っぱられて来ているのであった。
 そんな話を聞いていると、私は左翼の者を引っぱるために、警察が飲食店の女中たちを一人つかまえさせればいくらときめて買収しているということを思い出した。交番の巡査が、何でも引っぱって来て一晩留置場へぶちこみさえすれば五十銭。共産党関係だったら五円。所謂「大物」だとそれ以上――蔵原惟人でいくらになった? そう思うと、体が熱くなるのであった。
 暫くして、私は金網越しに云った。
「――だけれども結局、いくら引っぱって見たところではじまらないわけですね。世の中の土台がこのまんまじゃ。二十九日が来た。ソラ出ろ。……やっぱり食う道はありゃしない」
「ふむ……」
 監房の前の廊下はまだ濡雑巾のあとが春寒く光り、朝で、気がだるんでいないので留置場じゅう森と、私の低いがはっきりした言葉を聞いている。

 ガラガラと戸をあけて金モールをつけた背の高い司法主任が入って来た。片手でテーブルの上に出してある巡邏表のケイ紙に印を押しながら、看守に小声で何か云っている。顔の寸法も靴の寸法も長い看守は首を下げたまま、それに答えている。
「ハ。一名です。……承知しました。ハ」
 金モールが出て行くと、看守は物懶そうな物ごしで、テーブルの裏の方へ手を突込み鍵束をとり出した。そして、私のいる第一房の鉄扉をあけ、
「さア、出た」
 鍵の先で招き出すような風にした…

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