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空車
むなぐるま
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の文学 2 森鴎外(一)」 中央公論社
1966(昭和41)年1月5日
初出「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」1916(大正5)年5月6日、7日
入力者土屋隆
校正者小林繁雄
公開 / 更新2005-11-10 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 むなぐるまは古言である。これを聞けば昔の絵巻にあるような物見車が思い浮かべられる。
 すべて古言はその行われた時と所との色を帯びている。これをそのままにとって用いるときは、誰もその間に異議をはさむことはできない。しかしそうばかりしていると、そのことばの用いられる範囲がせばめられる。この範囲はアルシャイスムの領分を限る線によって定められる。そしてそのことばは擬古文の中にしか用いられぬことになる。
 これは窮屈である。さらに一歩を進めて考えてみると、この窮屈はいっそう甚だしくなってくる。なぜであるか。いまむなぐるまということばを擬古文に用いるには異議がないものとする。ところで擬古文でさえあるなら、文の内容がなんであろうと、古言を用いていいかというに、必ずしもそうでない。文体にふさわしくない内容もある。都の手振だとか北里十二時だとかいうものは、読む人が文と事との間に調和をかいでいるのを感ぜずにはいない。
 この調和は読む人の受用を傷つける。それは時と所との色を帯びている古言が濫用せられたからである。
 しかしここにいう所は文と事との不調和である。文自体においてはなお調和を保つことが努められている。これに反して仮りに古言を引き離して今体文に用いたらどうであろう。極端な例をいえば、これを口語体の文に用いたらどうであろう。
 文章を愛好する人はこれを見て、必ずや憤慨するであろう。口語体の文は文にあらずという人はしばらくおく。これを文として視ることをゆるす人でも、古言をその中に用いたのを見たら、希世の宝が粗暴な手によって毀たれたのを惜しんで、作者を陋とせずにはいぬであろう。
 以上は保守の見解である。わたくしはこれを首肯する。そして不用意に古言を用いることを嫌う。
 しかしわたくしは保守の見解にのみ安住している窮屈に堪えない。そこで今体文を作っているうちに、ふと古言を用いる。口語体の文においてもまた恬としてこれを用いる。着意してあえて用いるのである。
 そして自分で自分に分疏をする。それはこうである。古言は宝である。しかし什襲してこれを蔵しておくのは、宝の持ちぐされである。たとい尊重して用いずにおくにしても、用いざれば死物である。わたくしは宝を掘り出して活かしてこれを用いる。わたくしは古言に新たなる性命を与える。古言の帯びている固有の色は、これがために滅びよう。しかしこれは新たなる性命に犠牲を供するのである。わたくしはこんな分疏をして、人の誚をかえりみない。

 わたくしの意中にいわんと欲する一事があった。わたくしは紙を展べて漫然空車と題した。題しおわってなんと読もうかと思った。音読すれば耳に聴いて何事ともわきまえがたい。しからばからぐるまと訓もうか。これはいかにもなつかしくないことばである。そのうえ軽そうに感ぜられる。やせた男が躁急に挽いて行きそうに感ぜられる。この感…

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