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復讐
ふくしゅう
原題BALTHASAR ALDRAMIN. KURZE LEBENSGESCHICHTE AUS DEM ALTEN VENEDIG.
著者
翻訳者森 鴎外 / 森 林太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「鴎外選集 第14巻」 岩波書店
1979(昭和54)年12月19日
初出「三田文学 四ノ一―四」1913(大正2)年1~4月
入力者tatsuki
校正者しず
公開 / 更新2001-09-14 / 2016-02-01
長さの目安約 45 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 バルタザル・アルドラミンは生きてゐた間、己が大ぶ精しく知つてゐたから、己が今あの男に成り代つて身上話をして、諸君に聞かせることが出来る。もうあれが口は開く時は無い。笑ふためにも歌ふためにも、ジエンツアノの葡萄酒を飲むためにも、ピエンツアの無花果を食ふためにも、その外の事をするためにも、永遠に開く時は無い。なぜと云ふに、あれはサン・ステフアノの寺の石畳みの下に眠つてゐるからである。両手を胸の創口の上に組み合せて眠つてゐる。此創が一七七九年三月三日にあれが若い命を忽然絶つてしまつたのである。
 バルタザルは三十になり掛けてゐた。丁度バルタザルの父と己の父とが小さい時から近附きになつてゐたやうに、バルタザルと己とも早くから親しい友達になつてゐた。己達二人は殆ど同時に父を喪つた。その亡くなつた父も略同年位であつた。あれが館と己の館とは隣同士になつてゐて、二つの館が同じ運河の水に影をうつして、変つた壁の色を交ぜ合つてゐた。バルタザルが館の正面は白塗で、それに大さの違ふ淡紅色の大理石で刻んだロゼツトが二つ嵌めてあつた。それが化石した花のやうに見えた。己の家族の住んでゐる館、即ちヰマニ家の館は、壁が赤み掛かつた色に塗つてあつた。館から運河に降りる石階の上の二段は、久しく人に踏まれて[#挿絵]びてすべつこくなつてゐた。上から三段目は水に漬つたり水の上に出たりするので、湿つてぬる/\してゐた。
 大抵バルタザルは毎日此石階に出た。朝か昼か、さうでないと松明の光に照されて晩に出た。あれが己の館の石階に片足を踏み掛ける時、反対の足に力が入ると、乗つて来たゴンドラの舟がごぼ/\と揺れた。己はあれが石階の上から呼ぶ声を聞いた。あれは随分善く話して善く笑ふ男であつた。あれも己も少しも拘束せられずに青春を弄んでゐたのである。大抵遊びの場所へ己を引き出すのはあれが首唱の力であつた。あれは強い熱心と変つた工夫とを以て遊びを試みる男であつた。受用はあれが性命の核心になつてゐたので、あれはそれを多く味はふために夜を以て日に継いだ。その遊びの中で主位を占めてゐたものは恋愛であつた。
 バルタザルは女に好かれた。そして己を好いてくれた。それだから宴会の席でも散歩の街でもあれと己とは離れずにゐた。そこで二人が一層離れずにゐられるやうに、あれと己とは友達同士になつてゐる女を情人にした。偶に情人と分かれてゐる時は、二人は中洲へ往つて魚や貝の料理を食つた。凡そ市にありとあらゆる肉欲に満足を与へる遊びには、己達二人の与らぬことは無い。そしてそんな遊びの多いことは言を須たない。尼寺の応接所に二人が据わつて、干菓子をかじつたり、ソルベツトを啜つたりしながら、尼達の饒舌るのを聞いて、偸目をして尼達の胸の薄衣の開き掛かつてゐる所をのぞいてゐたことは幾度であらう。二人が賭博の卓に倚つて、人の金を取つた…

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