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不可説
ふかせつ
原題UNERKLARLICHT!
著者
翻訳者森 鴎外 / 森 林太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「鴎外選集 第14巻」 岩波書店
1979(昭和54)年12月19日
初出「昴 四ノ五」1912(明治45)年5月1日
入力者tatsuki
校正者田口彩子
公開 / 更新2001-09-11 / 2016-02-01
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 愛する友よ。此手紙が君の手に届いた時には、僕はもう此世にゐないだらう。此手紙の這入つた封筒が封ぜられて、僕の忠実な家隷フランソアが「すぐに出せ」と云ふ命令と共に、それを受け取るや否や、今物を書いてゐる此机の引出しから、僕は拳銃を取り出して、それを手に持つて長椅子の上に横になるだらう。後に僕の死んでゐるのが、そこで見出されるだらう。長椅子に掛けてある近東製の氈を、流れ出る僕の血が汚さないやうにする積だ。若しあの絹のやうに光る深紅色が余り傷んでゐなかつたら、君あれを記念に取つて置いてくれ給へ。あの冷やかな、鈍い色と、品の好い波斯の模様とを君は好いてゐたのだから。
 よし君が友人中の長も遠慮深い人であつたとしても、なぜ僕がこんな風にして此世を去るかと云ふことを、君はきつと問ふだらう。それを僕は無理だとは思はない。僕はまだ若い。金はある。体は丈夫だ。世間には精神上か又は肉体上に苦痛があつて、そのために死を求める人が随分あるやうだが、そんな苦痛は僕には無い。苦痛どころではない。沈鬱をも僕は感じてゐない。どうかするとなまけた挙句に世の中が面白くなくなると云ふこともあるが、それも僕には無い。又さう云ふ精神上の難関があつたとしても、それを凌いで通る手段が、僕には幾らもあつた筈だ。さう云ふ手段を、僕はいつも巧者に、有利に用ゐて来たものだ。世の中が面白くなくなつた時、気を紛らすには、本を読んだり、旅をしたり、友達と遊んだりすることも出来るではないか。それは慥かにさうに違ない。それでも僕は死ぬるのだ。若し僕がロマンチツクとかコケツトリイとか云ふやうな傾きを持つてゐて、忠実な、頼もしい友人が、僕が死んだ跡で、余計な思慮を費すやうにしようと思つたなら、今僕のしようと思ふことをするに臨んで、僕は勝手に秘密らしい、熱情のあるらしい、戯曲的な原因があるだらうと云ふ推測をさせるのが、何より易い事である。併し墓の下に這入つた跡に、僕は少しもそんな葛藤を残して置きたくない。それよりは此決心を僕の胸の中で熟せしめた事情を、簡単に君に説明して聞かす方が好からうと、僕は思ふ。その決心は此間から出来てゐて、これから暫時の後に実行する筈になつてゐるのである。
 ねえ、君、世間には恋愛、心痛、厭世、怯懦、自惚、公憤から自殺する人があるのだね。併し僕はこんな動機の中のどれにも動かされて死ぬるのではない。僕は誰に対しても不正な事をしたことはない。又世間の耳目を聳動して見ようなんぞとは思はない。恐怖や絶望のために、こんな決心をしたのではない。人生は僕のためには十分耐へ忍んで行くことの出来るものである。僕は我生存の上に煩累をなす何物をも見出さない。僕には失恋の恨は無い。啻に恨が無いばかりではない。目下頗る心を怡ましむるに足る情人を我所有としてゐる。然るに僕は此手紙を書いてしまふと、あの黯澹たる深紅色の我目を喜ばし…

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