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樺太脱獄記
からふとだつごくき
原題DIE FLUCHTLINGE VON SACHALIN(独訳)
著者
翻訳者森 鴎外 / 森 林太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「鴎外選集 第15巻」 岩波書店
1980(昭和55)年1月22日
初出「文藝倶楽部 一八ノ一」1912(明治45)年1月1日
入力者tatsuki
校正者しず
公開 / 更新2004-11-09 / 2014-09-18
長さの目安約 91 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 己はこのシベリア地方で一般に用ゐられてゐる、毛織の天幕の中に住んでゐる。一しよにゐた男が旅に出たので、一人でゐる。
 北の国は日が短い。冷たい霧が立つて来て、直ぐに何もかも包んでしまふ。己は為事をする気になられない。ランプを点けるのが厭なので、己は薄暗がりに、床の上で横になつてゐる。あたりが暗くて静かな時には、兎角重くろしい感じが起るものである。己はせうことなしに、その感じに身を委ねてゐる。さつきまで当つてゐた夕日の、弱い光が、天幕内の部屋の、氷つた窓から消えてしまつた。隅々から這ひ出して来たやうな闇が、斜に立つてゐる壁を包む。そしてその壁が四方から己の頭の上へ倒れ掛かつて来るやうな気がする。暫くの間は、天幕の真ん中に据ゑてある、大きな煖炉の輪廓が見えてゐた。この煖炉が、己の住んでゐるヤクツク地方の人家の、極まつた道具で、どの家でも同じやうな、不細工な恰好をしてゐる。その内広がつて来る闇が、とうとう煖炉を、包んでしまつた。己の周囲は只一色の闇である。只三個所だけ、微かに、ちらちら光つてゐる所がある。それは氷つた窓である。
 何分か立つたらしい。何時間か立つたらしい。己はぼんやりして、悲しい物懐しい旅の心持が、冷やかに、残酷に襲つて来るのに身を任せてゐた。己の興奮した心は際限もない、広漠たる山や、森や、野原を想像し出す。それが己を、懐しい、大切なあらゆるものから隔てゝゐるのである。その懐しい、大切なものは皆疾つくに我が物ではなくなつてゐるが、それでもまだ己を引き付ける力を持つてゐる。
 その物はもう殆ど見えない程の遠い所にある。殆ど消えてしまつた希望の光に、微かに照らされてゐる。そこへ、己の心の一番奥に潜んでゐる、抑へても、抑へても亡ぼす事の出来ない苦痛が、そろそろ這ひ出して来て、大胆に頭をもたげてこの闇の静かな中で、恐ろしい、凄い詞を囁く。「お前はどうせいつまでもこの墓の中に生きながら埋められてゐるのだ。」
 ふと天幕の平たい屋根の上で、うなる声のするのが、煙突の穴を伝つて、己の耳に聞えた。物思に沈んでゐた己は耳を欹てた。あれは己の友達だ。ケルベロスといふ犬だ。それが寒さに震ひながら番をしてゐて、己が今どうしてゐるか、なぜ明りを点けずにゐるかと思つて問うて見てくれたのだ。
 己は奮発して起き上がつた。どうもこの暗黒と沈黙とを相手にして戦つてゐては、とうとう負けてしまひさうなので、防禦の手段を取らなくてはならないと思つたからである。その防禦の手段といふのは、神がシベリアの天幕住ひをしてゐるものに授けてくれたものである。火である。
 ヤクツク人は冬中煖炉を焚き止めずにゐる。それから西洋でするやうに、煙突の中蓋を締めるといふ事はない。併し己は中蓋を拵へてゐる。その蓋は外から締めるやうになつてゐるのでその都度己は天幕の屋根の上に登らなくてはならない…

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