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作品ID2073
原題Unterfahnrich Gololobow(独訳)
著者アルチバシェッフ ミハイル・ペトローヴィチ
翻訳者森 鴎外 / 森 林太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「鴎外選集 第十五巻」 岩波書店
1980(昭和55)年1月22日
初出1910(明治43)年9月1日「学生文藝」一ノ二
入力者tatsuki
校正者ちはる
公開 / 更新2002-03-05 / 2014-09-17
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 医学士ウラヂミル・イワノヰツチユ・ソロドフニコフは毎晩六時に、病用さへなければ、本町へ散歩に行くことにしてゐた。大抵本町で誰か知る人に逢つて、一しよに往つたり来たりして、それから倶楽部へ行つて、新聞を読んだり、玉を突いたりするのである。
 然るに或日天気が悪かつた。早朝から濃い灰色の雲が空を蔽つてゐて、空気が湿つぽく、風が吹いてゐる。本町に出て見たが、巡査がぢつとして立つてゐる外に、人が一人もゐない。
 ソロドフニコフは本町の詰まで行つて、踵を旋らして、これからすぐに倶楽部へ行かうと思つた。その時誰やら向うから来た。それを見ると、知つた人で、歩兵見習士官ゴロロボフといふ人であつた。此人の癖で、いつものわざとらしい早足で、肩に綿の入れてある服の肩を怒らせて、矢張胸に綿の入れてある服の胸を張つて、元気好く漆沓の足を踏み締めて、ぬかるみ道を歩いてゐる。
 見習士官が丁度自分の前へ来たとき、ソロドフニコフが云つた。「いや。相変らずお元気ですな。」
 ゴロロボフは丁寧に会釈をして、右の手の指を小さい帽の庇に当てた。
 ソロドフニコフは只何か言はうといふ丈の心持で云つた。「どこへ行くのですか。」
 見習士官は矢張丁寧に、「内へ帰ります」と答へた。
 ソロドフニコフは「さうですか」と云つた。
 見習士官は前に立ち留まつて待つてゐる。ソロドフニコフは何と云つて好いか分からなくなつた。一体此見習士官をば余り好く知つてゐるのではない。これ迄「どうですか」とか、「さやうなら」とかしか云ひ交はしたことはない。それだから、ソロドフニコフの為めには、先方の賢不肖なんぞは分かる筈がないのに、只なんとなく馬鹿で、時代後れな奴だらうと思つてゐる。それだから、これが外の時で、誰か知つた人が本町を通つてゐたら、此見習士官に彼此云つてゐるのではないのである。
 ソロドフニコフは「さうですか、ゆつくり御休息なさい」と親切らしい、しかも目下に言ふやうな調子で云つた。言つて見れば、ずつと低いものではあるが、自分の立派な地位から、相当の軽い扱をせずに、親切にして遣るといふやうな風である。そして握手した。
 ソロドフニコフは倶楽部に行つて、玉を三度突いて、麦酒を三本勝つて取つて、半分以上飲んだ。それから閲覧室に這入つて、保守党の新聞と自由党の新聞とを、同じやうに気を附けて見た。知合の女客に物を言つて、居合せた三人の官吏と一寸話をした。その官吏をソロドフニコフは馬鹿な、可笑しい、時代後れな男達だと思つてゐるのである。なぜさう思ふかといふに、只官吏だからと云ふに過ぎない。それから物売場へ行つて物を食つて、コニヤツクを四杯飲んだ。総てこんな事は皆退屈に思はれた。それで十時に倶楽部を出て帰り掛けた。
 曲り角から三軒目の家を見ると、入口がパン屋の店になつてゐる奥の方の窓から、燈火の光が差して、その光が筋のやうにな…

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