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伊沢蘭軒
いさわらんけん
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「鴎外選集 第7巻 」 岩波書店
1979(昭和54)年5月22日
「鴎外選集 第8巻」 岩波書店
1979(昭和54)年6月22日
初出「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年6月~1917(大正6)年9月
入力者小林繁雄、網迫
校正者松永正敏
公開 / 更新2005-01-24 / 2014-09-18
長さの目安約 997 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

その一

 頼山陽は寛政十二年十一月三日に、安藝国広島国泰寺裏門前杉木小路の父春水の屋敷で、囲の中に入れられ、享和三年十二月六日まで屏禁せられて居り、文化二年五月九日に至つて、「門外も為仕度段、存寄之通可被仕候」と云ふ浅野安藝守重晟が月番の達しに依つて釈された。山陽が二十一歳から二十六歳に至る間の事である。疇昔より山陽の伝を作るものは、皆此幽屏の前後に亘る情実を知るに困んだ。森田思軒も亦明治二十六七年の交「頼山陽及其時代」を草した時、同一の難関に出逢つたのである。
 然るにこれに先つこと数年、思軒の友高橋太華が若干通の古手紙を買つた。それは菅茶山が伊沢澹父と云ふものに与へたものであつて、其中の一通は山陽幽屏問題に解決を与ふるに足る程有力なものであつた。
 思軒は此手紙に日附があつたか否かを言はない。しかし「手紙は山陽が方に纔に茶山の塾を去りて京都に帷を下せる時書かれたる者」だと云つてあるに過ぎぬから、恐くは日附は無かつたのであらう。
 山陽は文化六年十二月二十七日に広島を立つて、二十九日に備後国安那郡神辺の廉塾に著き、八年閏二月八日に神辺を去つて、十五日に大坂西区両国町の篠崎小竹方に著き、数日の後小竹の紹介状を得て大坂を立ち、二十日頃に小石元瑞を京都に訪ひ、元瑞の世話で新町に家塾を開いた。思軒は茶山の手紙を以て此頃に書かれたものと判断してゐたのである。
 茶山の此手紙を書いた目的をば、思軒が下の如くに解した。「其の言ふ所は、此たび杏坪が江戸に上れる次、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より帰りて再び之を茶山の塾に托せむと欲する計画ありとか伝聞し、山陽の旧過を列挙し、己れが山陽に倦みたる所以を陳じて以て澹父の杏坪の計画に反対せむことを望みたるなり」と云ふのである。計画とは山陽の父春水等の計画を謂ふ。春水等は山陽の叔父杏坪をして浅野家の執政に説かしめ、山陽の京都より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた上は、山陽は再び廉塾に託せられるであらう。しかし茶山は既に山陽に倦んでゐて、澹父をして杏坪を阻げしめむと欲するのだと云ふのである。
 此伊沢澹父とは何人であるか。思軒はかう云つた。「澹父の何人なるやは未だ考へずと雖も、書中の言によりて推量するに、蓋備後辺の人の江戸に住みて、藝藩邸には至密の関係ありし者なるべし」と云つた。
 思軒の「頼山陽及其時代」が出てから十九年の後、大正二年に坂本箕山の「頼山陽」が出た。箕山は同一の茶山の手紙を引いて、手紙の宛名の人を伊沢蘭軒だと云つてゐる。わたくしは太華が買つたと云ふ茶山の手紙の行方を知らない。推するに、此手紙はどこかに存在してゐて、箕山さんもこれを見ることを得たのではなからうか。
 わたくしは伊沢蘭軒の事蹟を書かうとするに当つて、最初に昔日高橋太華の掘り出した古手紙の事を語つた。これは蘭軒の名が一時いか…

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