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新感覚派とコンミニズム文学
しんかんかくはとコンミニズムぶんがく
作品ID2151
著者横光 利一
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集 第5巻」 小学館
1986(昭和61)年12月1日
初出「新潮」1928(昭和3)年2月号
入力者早津順子
校正者松永正敏
公開 / 更新2004-03-10 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 コンミニズム文学の主張によれば、文壇の総てのものは、マルキストにならねばならぬ、と云うのである。

 彼らの文学的活動は、ブルジョア意識の総ての者を、マルキストたらしめんがための活動と、コンミニストをして、彼らの闘争と呼ばるべき闘争心を、より多く喚起せしめんがための活動とである。

 私は此の文学的活動の善悪に関して云う前に、次の一事実を先ず指摘する。
 ――いかなるものと雖も、わが国の現実は、資本主義であると云う事実を認めねばならぬ。と。

 此の一大事実を認めた以上は、われわれはいかに優れたコンミニストと雖も、資本主義と云う社会を、敵にこそすれ、敵としたるがごとくしかく有力な社会機構だと云うことをも認めるであろう。

 しかしながら、此の資本主義機構は、崩壊しつつあるや否や、と云うことは、最早やわれわれ文学に関心するものの問題ではない。

 われわれの問題は、文学と云うものが、此の資本主義を壊滅さすべき武器となるべき筈のものであるか、或いは文学と云うものが、資本主義とマルキシズムとの対立を、一つの現実的事実として眺むべきか、と云う二つの問題である。

 更に此の問題は、われわれの問題とするよりも、広く文学としての問題であると見る所に、われわれ共通の新らしい問題が生じて来るべき筈であろう。

 われわれの討論は、今や一斉にここに向けられなければならぬ。

 コンミニストは次のように云う。「もしも一個の人間が、現下に於て、最も深き認識に達すれば、コンミニストたらざるを得なくなる。」と。
 しかしながら、文学に対して、最も深き認識に達したものは、コンミニストたらざるを得なくなるであろうか。

 もしも、文学に対して、最も深き認識に達したものが、コンミニストたらざるを得なくなるとすれば、コンミニストの中で、文学に関心しているものは、最も認識貧弱な人物にちがいない。何故なら、文学などと云うものは、コンミニストにとっては、左様に深き認識者の重要物ではないからだ。

 もし、彼らにして文学を認めるとすれば、文学に対して最も深き認識者は、コンミニストたらざるを得なくなると云う認識も否定すべきであろう。

 かくして、文学に対して最も認識深き者と雖も、コンミニストたらざる場合があるとすれば、この「場合」こそ、われわれ共通の問題となるべき素質を持った存在にちがいない。此の存在とは何であろうか。

 われわれは、いかなる者と雖も、資本主義の機構の上にある以上、資本主義を、その正邪にかかわらず、認めなければならぬ。またわれわれは、いかなるものと雖も、マルキシズムを、その正邪にかかわらず、存在する以上は認めなければならぬ。何故なら、此の二つの対立は、歴史の重大な歴史的事実であるからだ。

 しかしながら、此の二つの敵対した客体の運動に対して、いずれに組するべきかその意志さえも動…

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