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梅雨紀行
ばいうきこう
作品ID2209
著者若山 牧水
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若山牧水全集 第八巻」 雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日
入力者柴武志
校正者小林繁雄
公開 / 更新2001-02-08 / 2014-09-17
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 發動機船は棧橋を離れやうとし、若い船員は纜を解いてゐた。惶てゝ切符を買つて棧橋へ駈け出すところを私は呼びとめられた。いま休んでゐた待合室内の茶店の婆さんが、膳の端に私の置いて來た銀貨を掌にしながら、勘定が足らぬといふ。足らぬ筈はない、四五十錢ばかり茶代の積りに餘分に置いて來た。
『そんな筈はない、よく數へてごらん。』
 振返つて私はいつた。
『足らん/\、なアこれ……』
 其處を掃除してゐた爺さんをも呼んで、酒が幾らで肴が幾らでこの錢はこれ/″\で、と勘定を始めた。私はそれを捨てゝおいて船へ乘らうとした。
 爺さんと婆さんは追つかけて來た。切符賣場からも男が出て來た。船の窓からも二三の顏が出た。止むなく私は立ち留つた。そして婆さんの掌の上の四五枚の銀貨を數へた。どうも足らぬ筈はない。
『これでいゝぢやアないか、四十錢ばかり多いよ。』
『馬鹿なことを……』
 婆さんの聲は愈々尖つた。そして、酒が幾らで、肴が幾らで、と指を折り始めた。私もそれを數へてみた。そして、オヤ/\と思ひながら一二度數へ直して見ると、矢つ張り私の間違ひであつた。茶代拔きにして丁度五十錢ほど足りなかつた。私は帽子を脱いだ。そして五十錢銀貨二枚を婆さんの掌に載せた。載せながら婆さんの眼の心底から險しくなつてゐるのに驚いた。汗がぐつしより私の身體に湧いた。
 船は思ひのほかに搖れながら走つた。船内の腰掛には十人ほどの男女が掛けてゐた。
『間違ひといふものはあるもんで……』
 私の前に掛けてゐた双肌ぬぎの爺さんは私に言つた。この爺さんは茶店で私が酒を飮んでゐる時から二三度私に聲をかけてゐた。
『イヤ、どうも、……』
 私は改めて額の汗を拭いた。今日はもう一つ私は失敗をやつてゐた。鷲津までの切符を買つてゐながら一つ手前の新居町驛で汽車を降りた。濱名湖が見え出すと妙に氣がせいて、ともすると新居町から汽船が出るのではないか知らといふ氣になつたからであつた。が、矢張り淡い記憶の通り、鷲津から出るのであつた。そして通りがかりの自動車を雇つて鷲津の汽船發着所へ着いたのである。然しその時の船はもう出てゐた。次の正午發まで一時間半ほど待たねばならぬ。そして私は酒をとつた。朝飯を五時に濟まして來たので妙に食慾があり、茶店で出した肴だけでは足りなかつた。茶店の婆さんは附近の宿屋だか料理屋だかに電話をかけて二三品のものを取り寄せて呉れた。それこれの勘定が間違のもとゝなつたわけである。
 永年の酒の毒が漸く身體に表れて來た。ことに大厄だといふ今年の正月あたりからめつきりと五體の其處此處に出て來た。この半年、外出らしい外出すらしないで私は部屋に籠つてゐた。花のころ、若葉のころ、毎年必ず出かけてゐた旅にもよう出ないで、我慢してゐた。それがこの梅雨の季節に入つていよ/\頭が鬱して來た。いつそ息拔きに何處かへ出かけてゞも見るが…

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