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梓川の上流
あずさがわのじょうりゅう
作品ID221
著者小島 烏水
文字遣い新字新仮名
底本 「山岳紀行文集 日本アルプス」 岩波文庫、岩波書店
1992(平成4)年7月16日
入力者大野晋
校正者地田尚
公開 / 更新1999-09-20 / 2014-09-17
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

      一

 明科停車場を下りると、犀川の西に一列の大山脈が峙っているのが見える、我々は飛騨山脈などと小さい名を言わずに、日本アルプスとここを呼んでいる、この山々には、名のない、あるいは名の知られていない高山が多い、地理書の上では有名になっていながら、山がどこに晦くれているのか、今まで解らなかったのもある――大天井岳などはそれで――人間は十人並以上に、一寸でも頭を出すと、とかく口の端にかかる、あるいは嫉みの槌で、出かけた杭が敲きのめされるが、この辺の山は海抜いずれも一万有尺、劫初の昔から間断なく、高圧力を加えられても、大不畏の天柱をそそり立ている。山下の村人に山の名を聞くと、あれが蝶ヶ岳で、三、四月のころ雪が山の峡に、白蝶の翅を延しているように消え残るので、そう言いますという。遥に北へ行くと、白馬岳が聳えている、雪の室は花の色の鮮やかな高山植物を秘めて、千島桔梗、千島甘菜、得撫草、色丹草など、帝国極北の地に生える美しいのが、錦の如く咲くのもこの山で、雪が白馬の奔る形をあらわすからその名を得たということである。白馬岳の又の名を越後方面では大蓮華山といっている、或人の句に「残雪や御法の不思議蓮華山」とあるからは、これも一朶の白蓮華、晶々たる冬の空に、高く翳されて咲きにおうから、名づけられたのかも知れない。
 あわれ、清く、高き、雪の日本アルプス、そのアルプスの一線で、最も天に近い槍ヶ岳、穂高山、常念岳の雪や氷が、森林の中で新醸る玉の水が、上高地を作って、ここが渓流中、色の純美たぐいありともおぼえない、梓川の上流になっている。
 土人はカミウチ、あるいはカミグチとも呼んでいるが、今では上高地と書く、高地はおそらく明治になってからの当字であろう、上も高地も同じ意味を二つ累ねただけで、この地を支配している水や河という意義がない、穂高山麓の宮川の池の辺に穂高神社が祀ってある、その縁起に拠ると、伊邪那岐命の御児、大綿津見の生ませたまう穂高見の命が草創の土地で、命は水を治められた御方であるから今でも水の神として祀られて在ます、神孫数代宮居を定められたところから「神垣内」と唱えるとある、綿津見は蒼海のことで、今の安曇郡は蒼海から出たのであろう、自分は土地に伝わっている神話と地形から考えて、「神河内」なる文字を用いる、高地には純美なるアルプス渓谷の意味は少しもない、「河内」は天竜川の支流和田川の奥を八重河内というし、金森長近が天正十六年に拓いた飛騨高原川沿道を河内路と唱えているから、この地に最もふさわしい名と考える。
 神河内の在るところは氷柱の如き山づたいの日本アルプスの裏で、信濃南安曇郡が北に蹙まって奥飛騨の称ある、飛騨吉城郡と隣り合ったところで、南には徳本峠――松本から島々の谷へ出て、この峠へ上ると、日本アルプスの第一閃光が始めて旅客の眼に落ちる――と、北は焼岳の峠…

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