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樹木とその葉
じゅもくとそのは
作品ID2218
副題25 或る日の昼餐
25 あるひのちゅうさん
著者若山 牧水
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若山牧水全集 第七卷」 雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日
入力者柴武志
校正者林幸雄
公開 / 更新2001-06-13 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 或る日の午前十一時頃、書き惱んでゐる急ぎの原稿とその催促の電報と小さな時計とを机の上に並べながら、私は甚だ重苦しい心持になつてゐた。
 机に兩肱をついて窓のそとを見てゐると頻りに櫻が散つてゐる。小さな窓から見える間に一ひらか二ひらか、若しくははら/\とうち連れて散り亂れてゐるか、その花片の見えない一瞬間だに無い樣に、ひら/\、ひら/\、はら/\と散つてゐる。曇り日の濕つた空氣の中に何となく冷たい感觸を起しながら、あとから/\と散つてゐる。割合に古木の並んだ庭さきのその木の梢にはまだみつちりと咲きかたまつてゐるのだが、今日はもう昨日の色の深みはない。見るからにほの白く褪せてゐる。その褪せた花のかたまりの中から限りもなげに小さな花びらが散り出して來るのである。
『今年の櫻もけふあたりが終りかナ。』
 さう思ひながら私はたうとうペンを原稿紙の上に置いて立ち上つた。そして窓際の椅子に行つて腰掛けた。見れば窓下の庭も、庭つゞきの畑も、いちめんに眞白になつてゐる。たま/\あたりの木等に冷たい音を立てながら風が吹いて來ると、ほんとに眼の前に渦を卷いて花の吹雪が亂れたつのである。
 少し身體を前屈みにすると[#「前屈みにすると」は底本では「前届みにすると」]眞白な櫻木立の間に香貫山が見える。その圓みのある山を包んだ小松の木立もこの數日急に春めいて來た、といふより夏めいて來た。山いちめんの小松原の色がありありとその心を語つてゐる。黒みがかつたうへにうす白い緑青を吹いてゐるのである。
 何といふことなく私の心は靜かに沈んで行つた。そして頻りに山の青いのが親しくなつた。時計を見るとかれこれ十二時である。あれこれと考へたすゑ、私は椅子を立つた。
 茶の間に來て見ると妻は裁縫道具を片づけてゐた。晝飯を待つて兩人の小さな娘はもうちやんと其處に來て坐つてゐる。
『濟まないが、お握りを三つほど拵へて呉れないか、海苔に包んで……』
 不思議さうにこちらを見上げた妻は、やがて笑ひながら、
『何處にいらつしやるの。』
 と訊いた。
『山に行つてお晝をたべて來やうと思ふ。ウヰスキーがまだ殘つてゐたね。』
 その長い壜を取り出して見ると、底の方に少し殘つてゐた。それを懷中用の小型の空壜に移して、坐りもせずに待つてゐると眞黒な握り飯が出來て來た。
『おさいが何もありませんが……』
『澤庵をどつさり、大切りにして入れておいて呉れ。』
 それらを新聞紙に包んで抱へながら裏木戸から畑の中へ出た。
 畑つゞきにその山の麓まで私の家から五丁と離れてゐないのだ。畑には大抵百姓たちが出てゐた。麥は穗を孕み、豌豆には濃い紫の花が咲いてゐる。附近の百姓家からでも來るのか、そんな畑の中にも櫻の花片の散つてゐるのが見られる。古い寺の裏を通りすぎて登りかゝる道はこの海拔六百六十尺の小山に登る四つ五つの道のうち、最も嶮しい道…

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