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猿面冠者
さるめんかんじゃ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「太宰治全集2」 筑摩書房
1998(平成10)年5月25日
初出「鷭 第二輯」1934(昭和9)年7月1日
入力者赤木孝之
校正者湯地光弘
公開 / 更新1999-06-15 / 2016-02-23
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 どんな小説を讀ませても、はじめの二三行をはしり讀みしたばかりで、もうその小説の樂屋裏を見拔いてしまつたかのやうに、鼻で笑つて卷を閉ぢる傲岸不遜の男がゐた。ここに露西亞の詩人の言葉がある。「そもさん何者。されば、わづかにまねごと師。氣にするがものもない幽靈か。ハロルドのマント羽織つた莫斯科ツ子。他人の癖の飜案か。はやり言葉の辭書なのか。いやさて、もぢり言葉の詩とでもいつたところぢやないかよ。」いづれそんなところかも知れぬ。この男は、自分では、すこし詩やら小説やらを讀みすぎたと思つて悔いてゐる。この男は、思案するときにでも言葉をえらんで考へるのださうである。心のなかで自分のことを、彼、と呼んでゐる。酒に醉ひしれて、ほとんど我をうしなつてゐるやうに見えるときでも、もし誰かに毆られたなら、落ちついて呟く。「あなた、後悔しないやうに。」ムイシユキン公爵の言葉である。戀を失つたときには、どう言ふであらう。そのときには、口に出しては言はぬ。胸のなかを駈けめぐる言葉。「だまつて居れば名を呼ぶし、近寄つて行けば逃げ去るのだ。」これはメリメのつつましい述懷ではなかつたか。夜、寢床にもぐつてから眠るまで、彼は、まだ書かぬ彼の傑作の妄想にさいなまれる。そのときには、ひくくかう叫ぶ。「放してくれ!」これはこれ、藝術家のコンフイテオール。それでは、ひとりで何もせずにぼんやりしてゐるときには、どうであらう。口をついて出るといふのである、“Nevermore”といふ獨白が。
 そのやうな文學の糞から生れたやうな男が、もし小説を書いたとしたなら、いつたいどんなものができるだらう。だいいちに考へられることは、その男は、きつと小説を書けないだらうと言ふことである。一行書いては消し、いや、その一行も書けぬだらう。彼には、いけない癖があつて、筆をとるまへに、もうその小説に謂はばおしまひの磨きまでかけてしまふらしいのである。たいてい彼は、夜、蒲團のなかにもぐつてから、眼をぱちぱちさせたり、にやにや笑つたり、せきをしたり、ぶつぶつわけのわからぬことを呟いたりして、夜明けちかくまでかかつてひとつの短篇をまとめる。傑作だと思ふ。それからまた彼は、書きだしの文章を置きかへてみたり、むすびの文字を再吟味してみたりして、その胸のなかの傑作をゆつくりゆつくり撫でまはしてみるのである。そのへんで眠れたらいいのであるが、いままでの經驗からしてそんなに工合ひがよくいつたことはいちどもなかつたといふ。そのつぎに彼は、その短篇についての批評をこころみるのである。誰々は、このやうな言葉でもつてほめて呉れる。誰々は、判らぬながらも、この邊の一箇所をぽつんと突いて、おのれの慧眼を誇る。けれども、おれならば、かう言ふ。男は、自分の作品についてのおそらくはいちばん適確な評論を組みたてはじめる。この作品の唯一の汚點は、などと心のなかで…

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