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父を失う話
ちちをうしなうはなし
作品ID229
著者渡辺 温
文字遣い新字新仮名
底本 「アンドロギュノスの裔」 薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日
入力者森下祐行
校正者もりみつじゅんじ
公開 / 更新1999-07-28 / 2014-09-17
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 こないだの朝、私が眼をさますと、枕もとの鏡付の洗面台で、父は久しい間に蓄えた髭を剃り落としていた。そよ風が窓から窓帷をゆすって流れ込んで、そして新鮮な朝日のかげは青々と鏡の中の父の顔に漲っていた。
 おもてで小鳥が啼いた。
「お父さん、いいお天気だね。」と私は父へ呼びかけた。
「上天気だ! 早くお起き。今日はお父さんが港へ船を見物に連れて行つてやる。」と父は髭の最後の部分を丁寧に剃り落しながら云うのだった。
「ほんと? 素敵だな!……」私は嬉しくてたまらなくなった。それから何気なくきいてみた。
「お父さん、何だって髭を剃っちまったんだね?」
「髭がないとお父さんみたいじゃないだろう。どうだ?……」と父はくるっと振向いて私を見たが、その次に細い舌をぺろりと出して眉根を寄せてみせた。
「どうしたのさ[#挿絵]」
「こうなれば、ちよっとお父さんみたいじゃなくなるだろう。……今日お前を連れて遊びに行ったところで、お前を捨ててしまうつもりなんだよ。うまく考えたもんだろう……」
 父はそう云って笑った。
「嘘だい!」と私は寝床の上へ身を起しながらびっくりして叫んだ。
 さて、父にせかれて仕立下ろしのフランネルの衣物に着換えた私は、これも今日はじめて見る香い高い新しい麦わら帽子をかぶって、赤色のネクタイを結んだ父と連れだって家を出た。
 はつ夏の早い朝の空は藍と薔薇色とのだんだらに染まって、その下の町並の家々は、大方未だひっそりとして眠っていた。
 停車場へ行く人気のない大通りを父はステッキを振りまわしながら歩いた。
「誰にも出遇わなくて幸だ。」と父は独言を云った。
「なぜ?」と私はきいた。
 父は返事をしなかった。
 だが、その代りに父はまた独言を云った。
「ほんとにいやな息子だ。十ちがいの親子だなんて! ああ俺も倦き倦きしたよ。」
「なぜ!」私は父の顔をのぞき込んできいた。
 父は、併し、私の声が聞こえなかったものか、黙ってにやにや笑っていた。
 私は悲しくなって、父の腕に私の腕をからませた。ところが父はそれを邪慳に振り払った。そして声だけは殊の外やさしくこう窘めた。
「およしよ。君と僕とが兄弟だと思われても、また、困るからね。およしよ。」
 私は赤色がかったネクタイを結んで、髭がなくて俄かにのっぺりとしてしまった父の顔に、性の悪い支那人のような表情をみとめた。
 汽車に乗ってからは、父は窓の外を走っている町端れの景色の方へ向いて、「ヤングマンスファンシイ」の口笛なんかを吹き鳴らしていた。そして私に対しては一層冷淡な態度をとった。
「ね、港へ船見に行くの?……」と私は不安な気持できいた。
「うん。船に乗るかも知れない……」
 父はそう返事しながら、胸のかくしから疎い紫の格子のある派手なハンカチと一緒に大きな鼈甲縁の眼鏡をとり出すと、それをそのハンカチでちよっと拭いて…

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